刑法の通説、その語り方について(仲道祐樹)(特集:刑法の「通説」――通説とは何か、何が通説か)

特集から(法学セミナー)| 2022.05.18
毎月、月刊「法学セミナー」より、特集の一部をご紹介します。

(毎月中旬更新予定)

◆この記事は「法学セミナー」809号(2022年6月号)に掲載されているものです。◆

特集:刑法の「通説」――通説とは何か、何が通説か

法学を勉強していると、必ず出てくる「判例」と「通説」。そのうち、そもそも「通説」とはなにか、それを学ぶ意味は何なのかを、刑法学の観点から繙く。

――編集部

1 プロローグ

ことの起こりは、2022年に年が変わって、まだ一般には「三が日」と呼ばれる日の朝に、ある刑法学者から飛んできた1通のメッセージであった。

「学生に『通説教えて』と言われるんだけど、今って、誰が通説?」

筆者自身は現在法学部ではない学部で刑法を担当しているため、あまり聞かれない質問ではあるが、かつて自分が法学部生だった頃には確かに気にした点ではあった。法学部生やロースクール生が「通説を教えて欲しい」と思う気持ちは、どうやら不変のようである1)

しかも、「通説」を求める気持ちが、刑法の、特に総論の分野において強くなるであろうことは想像に難くない。刑法総論の分野は、刑法各論に比して公表される論文の量も多く、また、大学院生や助教・助手などの若い研究者にとっては、大量の先行研究がある中で新規性のある学説を打ち立てる必要があるから、どうしても学説が乱立する。その際、論文というのは一般的な見解が妥当でないと考えて執筆されるものであるから、批判対象となるのは通説である2)。通説を批判する論文が増えると、数の上では通説の反対者が多くなり、何が通説かが見えにくくなる。どこかの段階で、偉い先生が「昔はこれが通説だったが、今はこれが通説だ」と基本書に書いてくれればいいのだが、あまりそういう傾向も見られない3)

なるほど、そういうことならば後進のお手伝いをせねばなるまい。本特集は、刑法総論分野において、各論点の現在における通説は何だととらえられるのか、通説とされる枠組みにどのような変化があったのか、なぜそれが通説だと評価できるのかを検証し、現在の通説の同定を試みるものである。ただし、ここでいう「通説の同定」には、「現在、通説と言える見解は存在しない」という結論を含みうる点には注意が必要である。

2 「通説」という難敵

(1)  「通説」の多義性

もっとも、この作業をするにあたっては、理論的なハードルがある。「通説」というのは何によって決まるのか、である。

冒頭のやりとりには続きがある。早朝のメッセージに対して、筆者は眠い目をこすりながら次のようにリプライした。「通説というのは団藤重光、大塚仁の見解のことです、と教えてはいますが、例えば因果関係とかで折衷的相当因果関係説が通説である、というのはかなり違和感があるので困ってはいます。

その翌日、同じ刑法学者から次のメッセージが届く。

「例えば、因果関係の基本部分の予見可能性は通説?/誰が私見として使ってる?」

筆者は返す。

「とりあえず基本事項として教える、という意味では通説なんじゃないですか?」

返信が届く。

「私見としている人が見当たらない通説とは。」

すでにこのやりとりにおいて、2つの通説概念が登場している。筆者は、「とりあえず基本事項として教えられている内容」、正確に言えば、「刑法学者や刑事実務に関わる者が、賛否はともかく共有している考え方」のことを通説と呼んでいる。その代表例として、「団藤重光、大塚仁の見解」を挙げているわけである。これに対して、件の刑法学者は、「現に私見としている者が多い見解」が通説であると理解しているのである。

問題はこれで終わらない。本特集の準備にあたり、筆者は(件の刑法学者や、特集執筆者とともに)人的構成を異にする複数の研究会で特集内容について議論をしたが、そこで出てくる通説の概念がそもそも人によって相当異なっていることが明らかになったのである。曰く、「『確立した判例』というのがあるが、その学説版が通説」、「判例を説明し、かつ判例がない部分でも適用可能な枠組みが通説」、「単に多数の支持を受けているというだけではなく正しい見解というニュアンスを含むのが通説」等々。

要するに、刑法学者と呼ばれている人々の間でも、「通説」の概念には一致を見ていないのである。本特集がやろうとしているのは、一定の基準を立てた上で、それに該当するという意味での「通説」を同定するというものであるが、前提となる「通説」の理解自体が多義的であり、論争的なのである。

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脚注   [ + ]

1. とはいえ、筆者が研究者養成大学院の院生にインタビューをした範囲では、「学部時代に通説を意識して勉強したことはない」という意見もあったので、少しずつ変化はしているのかもしれない。
2. 逆に言えば、批判対象となるべき一般的な考え方のことを指して「通説」と呼ぶ用語法もありうる。しかし、批判対象であればただちに「通説」になるわけではない。それが同時に一般的な考え方であることが必要となる。その意味で後述する通説概念にいう「一般的評価基準」に包含しうる用語法であり、脚注での言及にとどめる。
3. 例えば、本特集・大関論文が通説と同定する「危険の現実化」という枠組みについて、橋爪隆『刑法総論の悩みどころ』(有斐閣、2020年)1頁が「通説的地位を獲得したといっても過言ではない」とするほかは、基本書レベルで同説が通説かどうかに踏み込んだ記述は見られない。