『法学者・法律家たちの八月十五日』(日本評論社法律編集部)

一冊散策| 2022.08.15
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はしがき

昭和二十年八月十五日、正午。雑音まじりのラジオから流れてきた、あの独特の抑揚をもった「玉音」を人々はどのような感慨をもって聞いたのだろうか。そしていま、あの日をどのような思いで振り返っているのだろうか。〔改行〕あれから三十年以上の年月が流れた。あまりにかまびすしい議論の日々が過ぎて、最近では語られることの少なくなった八月十五日が今年も近づいてくる。〔中略〕さまざまな法学者のさまざまな夏がここに記されている。わたしたちが、いま一度「あの日」の意味を考えてみるよすがとなれば幸いである。

『法学者・法律家たちの八月十五日』定価:税込 3,300円(本体価格 3,000円)

本書は、『法学セミナー』誌上における「私の八月十五日」を再録したものである。この企画が掲載されたのは、敗戦からちょうど三十年を経た、一九七五年八月号(二四二号)のことであった。冒頭に掲げた一節は、好評につき同じ企画の第二弾が行われるということで、一年後の一九七六年八月号(二五七号)に当時の編集部が寄せた文章から抜粋したものである。一読して格調の高い名文であるが、ここに引用したのはそのためだけではない。というのもこの一節には、戦後三〇周年という節目に際してこのような特集が企画された理由の一端が語られているからである。それはすなわち、この当時、「あの日」への関心が薄れ始めていたということにほかならない。

このことは、二〇二一年に生きる我々からするとやや意外であるようにも感じられる。「八月ジャーナリズム」の隆盛は、毎年やって来る八月十五日に「あの日」を意識しないことを、ほとんど不可能にしているからだ。けれども、敗戦から七六年が経過した現在、「あの日」をめぐって毎年のように繰り広げられる「あまりにかまびすしい議論」は、すでに「あの日」の記憶から遠く隔たってしまってはいないだろうか。そうであるとすれば、「あの日」の記憶が永遠に失われてしまう前に、「あの日」の記憶を記録した四五年前の企画を改めて世に問うことにも意味があるように思われる。

本書に登場している人々は、多彩な経歴を有しているとはいえ、そのほとんどが法律家であり、しかも女性は一人もいない。その意味において、本書が「偏った」記憶の記録であることは否めないが、幸いなことに、三名の優れた歴史家にナビゲーターとしてご協力を仰ぐことができた。彼らの道案内に従うことで、この国の法律学にとってあの戦争がどのような意味を持っていたのかについて、読者諸賢には明晰な見取図が得られるであろう。その見取図を片手に、皆さんが日々の生活を営んでいるそれぞれのフィールドで「あの日」の意味を考えて頂ければ、解説者の一人としてこれに勝る喜びはない。

最後になるが、本書の企画から刊行までの道のりを文字通りリードして下さった日本評論社の小野邦明氏に、この場を借りて厚く御礼を申し上げる。

 二〇二一年五月三日
西村裕一

自由のもたらす恵沢(宮沢俊義)

あの日――一九四五年八月一五日――は、これといった感興もなしに、なにげなく、やってきたようだ。戦争も近くおしまいになるだろう、といううわさは、数日来うすうす聞いてはいたが、まだきちがいじみた軍人どもが何をし出かすか、わからない。現に前日の晩のいわゆる「陸軍大臣」と名乗った放送の例もある。そう思って、しずかにおひるの天皇の放送を待っていた。いわゆる「玉音」放送は、職員が安田講堂にあつまって聞いた。聞きとりいい放送とはいえなかったが、わたしには、あらかじめ期待していたことだから、その意味がよくわかった。降伏は確実だった。

何よりもまず、ほっとした。それまては、敵軍に上陸されて逃げまわり、どこかの山中でのたれ死にするだろう、と心ひそかにあきらめてはいたが、これでどうやら命だけは助かったと思った。これからは、毎晩ゲートルをはずしてぐっすり眠られるのが、ありがたかった。そのうちには、コーヒーものめるかな、というはかない望みも、腹の隅っこにわいてきた。

実は、わたし自身の命も、限界に近づいていたようだ。からだが、すっかり衰弱しきっていた。毎日下痢がとまらなかった。家を焼かれて泊りこんでいた大学の三階の研究室へ上る階段では、いちいち手すりにつかまらなくてはならなかった。全身が骨と皮ばかりになっていた。家族の疎開先を訪ねるたびに、能の俊寛僧都そっくりだといわれた。

それが終戦とともに、徐々に立ち直ってきた。下痢もどうやらとまった。健康を回復するにつれて、おもむろに世の中を見わたす余裕も出てきた。

*  *  *

その頃は、戦争に勝つとは思わなかったが、どういう形でけりがつくかについて、まったく見通しがつかなかった。戦争どころか、その日その日の糧を手に入れるのが、せいいっぱいだった。ほかに、ゆとりは、なかった。われながらお恥ずかしい動物生活だった。歴史上千載一遇の機会にめぐりあわせたという自覚は、あまりなかった。すべてが、夢のように、過ぎ去っていった。

一年ほど前に、芦田均さんがわたしの泊っていた大学に見えて、「この戦争は負けだから」という前提で、敗戦の手続について話し合いたいといわれたことがある。当時かれほど情報にめぐまれておらず、したがってまた、かれのような先見の明をもたなかったわたしとしては、そういう話がもし憲兵にでももれたら、というような心配もあったし(近くの原彪君が憲兵隊へ呼ばれた例もある)、それにまもなく空襲で逃げまわるような身になったせいもあったので、芦田さんには、後で連絡すると約束したまま、とうとうすっぽかしてしまった。何ともだらしのないはなしだった。

正直なところ、そのときは、わたしとしては、終戦の手続を話し合うよりは、せめて肉の一片でも欲しかったのである。虚脱感というか、あるいは戦争ボケというか、とにかく頭が正常な状態になかった。その瞬間に疎開中の家族のだれかがバクダンで急死したと仮定しても、わたしは、少しもとりみださず、案外平然(?)としていたのではないかという気がする。現在のことばでいうならば、かなり「恍惚の人」になっていたようである。

*  *  *

終戦とともに、わたしもいろいろな活動に巻きこまれることになった。

政府の憲法問題調査会(松本委員会)に入って、憲法改正問題に干与することになった。これには、美濃部先生をはじめ、多くの学者たちも参加したが、改正の大筋がはっきりしていなかったので、その態度も消極的だった。わたしはまた、東大に設けられた憲法改正委員会の委員長もやらされたが、なにぶんにも占領時代のこととて、万事につけて手さぐり的な態度が支配的であり、思いきった決心は、つきかねていた。

そこヘマッカーサー草案があらわれた。そして、良かれ悪しかれ、GHQの憲法改正の大方針がきまった。むろん、マッカーサー草案は、はじめから、それとして公にされはしなかった。外部に発表されたものは、どこまでも、日本の内閣が、GHQの協力を得て、作ったものとされていた。しかし、その根本原理は、すでに確定的であり、日本の内閣や議会の意志でそれを動かすことは、もはやできなかった。

ここで、いわゆる「国体」が否定されたことが注目される。前年のポツダム宣言受諾の詔書の中で、その護持があのように明示的に約束された「国体」が、否定された。重苦しい「国体」の圧力から、まだじゅうぶんに脱けきっていなかったわたしたちは、びっくりした。そして、びっくりすると同時に、よろこんだ。泣く子もだまらせられたあの「国体」は、これからは、毎年各地で行なわれる国民体育大会に変わってしまうのである。

いま「国体」がほろびたので、びっくりすると同時によろこんだといった。ここに戦後の日本国憲法に対する根本的な意見の対立が由来する。びっくりしながらも、忍びがたきを忍んでこれをのんだ――「今に見ていろ!」――人たちと、びっくりしつつも、よろこんでこれをのんだ人たちとがあった。前者は、日本国憲法をいつの日か改正していわゆる「自主憲法」を作ることを志ざす人たちであり、後者は、ぜっかくの憲法をどこまでも守りぬこうとする人たちである。この対立が憲法改正論と反対論との対立として、今日に残っている。

*  *  *

マッカーサー草案に先だって、各政党がそれぞれ憲法草案を発表した。その中で、共産党のそれをのぞいては、いずれも、「国体」を真正面から否定したものはなかった。どんなことがあっても、「国体」を否定してはならない、という圧力が、当時はまだそれほどまでに、国民の上に重くのしかかっていたのである。その圧力をとりのぞいたのが、マッカーサー草案であった。

マッカーサー草案の圧力は、すなわち、占領軍の圧力であった。「国体」の圧力が占領軍の圧力によってとりのぞかれたのである。これについては、保守党方面には非常な抵抗があった。しかし、それまでの「国体」の圧力の影に潜在的に存在した国民大衆の圧力が、新しい圧力として、戦後、時が経つとともに、生きかえったことを忘れてはならない。

この時点において、「国体」の重圧をおさえつけることが現実に可能であったのは、それがGHQの圧力によって推進されたからであることは、たしかである。あの時にGHQがいなかったと仮定すれば、結論は、おそらく、当時の日本の政府筋の考えとあまり違わない憲法――「国体」を伴う憲法――が実現されたに相違ない。ということは、「国体」をずばり否認することは、実際の問題としては、GHQの存在と圧力があってはじめて可能であった、ということである。この事実は、それがいかに不愉快な事実であろうとも、これを承認しなくてはならない。

ただ「国体」の廃止という明治維新以来の大変革がGHQの力によって成就したとしても、それが国民の大多数のあいだで、憲法の新しい原理として、不動の地位を占めるのに、あまり時間はかからなかった。そこにはすでに民主的な地盤がじゅうぶんにでき上っていたのである。「国体」のその後の運命を見れば、そのことはよく分る。

*  *  *

明治憲法の下での生活と日本国憲法の下でのそれとをくらべて、どちらがより望ましいかは、人によって意見が違う。たとえば、明治憲法の下で特権を受けていた人たちと、そうでない人たちとでは、明白に答えが違うだろう。わたし個人としては、ためらうことなく、現在の憲法に軍配をあげる。おそらくこの点で、「むかしはよかった」と本気で考える人は、数にしても、ごくわずかだろうとおもう。

日本国憲法が保障する「自由のもたらす恵沢」を望ましく思う人は、結局は、それをもたらした戦争と降伏とに感謝することになるだろう。戦争と降伏がなかったと仮定してみると、実際問題として、「国体」ひとつをとってみても、少なくともあの時点における改革――「国体」の否認――は、不可能だったと思われるからである。さらに、基本的人権、ことに生存権や労働基本権などを現在のような形で実現することも、おそらくは不可能だったに違いない。こう考えてみると、今われわれが享受している数々の福祉は、すべて戦争と降伏とのおかげだということにならざるを得ない。もっとも数々の福祉といったが、これらを望ましいと考えない人はもちろん別である。

しかし、それにしても、高いねだんだった。数百万という人間の命を、徴集令状一本で集めて、これを片っぱしから気前よく消費したものである。そのくせ、その指導者たちの中には、戦陣訓の教えに反して、戦後もぬくぬくと生きながらえている者もある。

それの責任はだれが負うべきものか、は別の問題として、憲法にいう「自由のもたらす恵沢」については、結局において、わたしたちは、戦争と降伏とに感謝しなくてはならないのかもしれない。

毎年八月一五日が来るたびに、こんなことを考える。

 (みやざわ・としよし 東京大学名誉教授)
一八九九年~一九七六年

目次

はしがき

私の八月十五日 第一集
三〇年目の八月一五日――戦争体験と法律家…………長谷川正安
三十年前の八月十五日と私…………小野清一郎
敗戦を喜ぶ…………横田喜三郎
裁判官として…………熊谷 弘
一弁護士が遭遇した民族の大時刻…………小林俊三
下呂の陸軍病院にて…………沼田稲次郎
ウェーバーとの出会い…………世良晃志郎
敗戦の日の前後…………兒島武雄
みどり児を抱えて…………浦辺 衛
見届けた悪魔の正体…………正木ひろし
京城の八月十五日…………鵜飼信成
重圧感からの解放…………田畑茂二郎
赤軍に投降して…………磯野誠一
欧露の収容所にて…………福島正夫
見込みのない愚かな戦争…………河村又介

私の八月十五日 第二集
二〇年後への待望…………植松 正
“自由のもたらす恵沢”…………宮沢俊義
安堵と不安の長い一日…………峯村光郎
神州から人間の国へ…………浅井清信
まさしく再生の出発点…………鈴木安蔵
敗戦直後の司法修習…………村松俊夫
崩壊した大学の再建…………田畑 忍
生涯の重要な分岐点…………安井 郁
待望と焦燥の三週間…………岡倉古志郎
八月十五日のあと…………杉村章三郎
終戦詔書を評して…………中村 哲
科学する心をなくしていた頃…………加藤新平
八月十五日の日記から…………林 修三
私の八月十五日…………舟橋諄一
私にとって敗戦は虚脱からの解放であったが、独立回復後の日本の法学界はふたたび私を虚脱状態に陥れた…………沼  正也

解 説
「統制」と「調査」――内地の司法官・「外地」の法学者にとっての「八月十五日」…………出口雄一
台北・京城・天皇制…………西村裕一
憲法学史の「語られ方」と法学方法論…………坂井大輔
「世界政府論」と「中立論」のあいだ――戦後国際法学のなかの日本政治外交史…………前田亮介

書誌情報など