(第34回)公教育の宗教的中立性の運用に関して最高裁が示した柔軟な姿勢(江原勝行)

私の心に残る裁判例| 2021.03.01
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

高専生剣道実技拒否訴訟最高裁判決

信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した市立高等専門学校の学生に対する原級留置処分及び退学処分が裁量権の範囲を超える違法なものであるとされた事例

最高裁判所1996(平成8)年3月8日第二小法廷判決
【判例時報1564号3頁掲載】

法学部在籍時代、元々は刑法や商法の学修に関心を抱いていた私が憲法のゼミに入ろうと思ったのは、憲法の講義でいわゆる熊本丸刈り訴訟(熊本地判1985(昭和60)年11月13日判例時報1174号48頁)を知ったことがきっかけであった。私も中学生の頃、校則により丸刈りを強制され、その他の個人的には不必要・不合理としか思えない様々な校則について疑問を抱いていたのだが、同訴訟は、日本国憲法で保障される基本的人権を武器に、教育現場の校則に対して異議申立てをすることができるということを不勉強な私に教えてくれた。ちなみに私は、中学生の当時、なぜ開襟シャツを着てはいけないのか、なぜワンポイントが入った靴下を履いてはいけないのかなど、校則について担任教師に問い質したことがあったが、その疑問への正面からの回答を聞くことはできなかった。教育現場において、校則の強制自体が自己目的化していたからであろう。

翻って高専生剣道実技拒否訴訟に話を移すと、そこではいわゆる校則が問題となったわけではない。問題となったのは、ある宗教団体の信者である学生に対する学業成績評価および進級・卒業認定規程の適用であったのだが、しかし、教育現場における原則・規則の適用のあり方という点では、校則をめぐる裁判と相通じる面があるだろう。

この訴訟の最高裁判決は、宗教上の理由から剣道実技への参加を拒否した学生に対する校長の原級留置・退学処分について、学生が享有する信教の自由の意義や代替措置による成績評価と政教分離原則との関係等を考慮に入れながら、校長の裁量権行使における逸脱・濫用の有無を審査し、結論として当該処分の違法性を認定した。この判決に対しては、学説の側から疑問の声も少なからず提起されてきた。確かに、本判決が剣道実技への参加義務について信教の自由に対する直接的制約であるとは認めず、したがって、本件処分を厳格な基準を用いた違憲審査の対象とはせずに、学生の処分へと至る学校側の判断過程に対する審査にとどまったことは、信教の自由の重要性に鑑みて疑問が残る。

その一方で、教育現場における自己目的化した校則の強制を経験してきた私にとって、本最高裁判決が行った行政裁量審査に肯定的な側面を見出すことは、十分可能である。本件において学校側は、学生および保護者が求めた代替措置による成績評価を一貫して拒否した。その理由は、憲法論としては、かかる成績評価が政教分離原則、特にその重要な内容たる公教育の宗教的中立性に違反するというものであった。確かに、宗教問題に限らず、公教育においては学生や生徒等の個別的属性に対する学校側の中立的態度が基本的には求められるし、その意味において、学生や生徒等の処遇に関する平等原則は教育上の必須の前提でもある。しかし、一部の優秀で従順な学生や生徒等以外は切り捨ててもよいという教育観にでも立たない限り、学修上の個別的配慮を最初から否定する姿勢は、公教育の目的の達成を放棄するにも等しいであろう。

本件における学校側の主張は、学生の人権や利益を顧慮しない、中立性や平等といった原則を自己目的化した背理と評価しうる。それに対して、結果的に公教育の宗教的中立性よりも個人の信教の自由を優先させた最高裁は、原則の自己目的化に伴う教育上の弊害を認識していたからこそ、「他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置を採ることは可能である」と断じたように思われる。


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江原勝行(えはら・かつゆき 早稲田大学准教授)
1971年生まれ。岩手大学人文社会科学部助教授、同准教授を経て現職。
著書に、『「国家と法」の主要問題』(共著、日本評論社、2018年)、『ヨーロッパ「憲法」の形成と各国憲法の変化』(共著、信山社、2012年)など。