そだちとそだての道しるべ(1)いたいのいたいのとんでゆけ(笠原麻里)

連載から(こころの科学)| 2020.11.17
こころの科学」に掲載された連載(第1回)をご紹介します。

(奇数月中旬更新予定)

◆本記事は、「こころの科学」205号(2019年5月号)から開始した連載「そだちとそだての道しるべ」の第1回です。

子どもは、よく転ぶ、ぶつける、ケガをする。扉に指を挟んだり、溝にはまってしまったり、ちょっと気をつければよいのにと、大人が思うようなことに注意を払えない。そもそも、目の前の石ころや虫やアイスクリームに夢中だし、きれいなものや好きなものがあったら触りたいし、あっちに大好きな車やキラキラ光るものがあったら行ってみたくなってしまうのだ。

当然のことながら、そこに段差や溝があるなど知ったことではないし、閉まる扉に合わせたスピードで手を引っ込めるなんてできない。いや、とくに障害物などなくても、足の運びより視界に入った素敵なもののほうが大事に思えるので、つまずいてしまうのだ。

もっと本当のことを言えば、頭の中いっぱいにとっても魅力的な考えが浮かんでいたりするので、歩く先なんて見えていない。つまり、電信柱や塀はそこまで行ってぶつかって初めてわかることだってよくあるのだ。つまずいたりぶつかって、いったんバランスを失うと、平衡感覚も十分育っていないし、受け身なんかより手に持ったアイスクリームのほうが大事だし、肘や膝でもうまくつければ大成功だが、場合によっては顔から地球に突っ込むことになりかねない。

転ぶと、痛い。たとえうまく手のひらや膝をついたとしても、擦り傷や切り傷ができる。顔面から地面にぶつかると、目の前に火花が散るのが見えることもあるらしい。最初はちょっときょとんとしたり、一瞬我慢できそうなお兄ちゃんらしい子もいるが、痛みはすぐに押し寄せる。さらに、血が出ているのを見たりすれば、もうそれだけでびっくりだ。そこでひるんで泣き顔になったら、もう気持ちを収めることは難しい。「わーん」「うえーん」「ギャー」なんでもありだが、出せる声で大泣きをする。そうすれば、お母さんや幼稚園の先生や、とにかく誰かが飛んできてくれて「どうしたの?」と助けてくれるから。そして、たいしたケガじゃないとわかると、いつまでも泣いているのはどうもふさわしくないと判断されることが多く、おまじないをかけられる。

「いたいのいたいの、とんでゆけー」

とんでいくわけはないではないか、痛いものは痛いのだ。血だって出たし、現に擦り傷はできたてほやほやで、かさぶたになってくれるのにも何日かはかかるのに……。なのに、子どもは泣きやむ。ひっくひっくと泣きじゃくりながらも、なんだか我慢していく。傷の手当てとともに、お母さんや先生に涙を拭いてもらいながら、幼稚園生くらいなら甘えられて嬉しくて、小学生くらいだったら泣いてしまった自分がちょっと恥ずかしくて、でもどちらもちょっと笑うのだ。え? 痛みはどこへいってしまったの?

多くの子どもは、そんな痛い思いを何度もするが、何度でも復活して大人になっていく。それには、ケガの痛みだけではなく、病気の苦痛やこころのストレスや不安も含まれる。人はみな、体やこころの苦痛や不安に耐えて次へ進む力をもっている。小さい子どもには、その力のありかがまだわからないのだが、お母さんや先生に「いたいのいたいの、とんでゆけー」とか「心配ないよ、大丈夫」とちょうどいいタイミングでおまじないを唱えてもらうと、その力が自分の中から出てきてくれる。何度か繰り返していると、そのありかが自分でもわかるようになって、大人に頼らなくても出せるようになるので、ちょっとやそっとの、いや、結構な“痛み”に屈さなくなるのである。

ところが、痛みや不安から逃れられなくなってしまう子どもがいる。

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