(第26回)実質的妥当性と形式論理の狭間から創造性へ(久保野恵美子)

私の心に残る裁判例| 2020.08.18
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

長崎じん肺訴訟上告審

1 雇用者の安全配慮義務違反によりじん肺にかかったことを理由とする損害賠償請求権の消滅時効の起算点

2 慰謝料額の認定に違法があるとされた事例―長崎じん肺訴訟上告審判決

最高裁判所平成6年2月22日第三小法廷判決
【判例時報1499号32頁掲載】

法科大学院の広報行事等に関わる中で、法律の専門性を通じて社会と結びつくことの魅力はどこにあるかを考えることが増えている。表題の判例は、民法専攻の法学研究者の卵として、初めての評釈の対象として割り当てられたものだった。第一審から最高裁までを丁寧に読み込むこととなり、その経験は、法律の専門性や面白味の体感につながった。そこで、この判例の紹介を通じて、その一端をお伝えできればと思う。

判例は、炭坑で粉じん作業に従事し、じん肺に罹患した患者63名について、雇用者に対し損害賠償が請求された事件に関わる。じん肺は、粉じんの吸入によって肺組織が反応し、心肺機能障害を招いて死亡に至る進行性の疾病である。進行する場合に、予後は不良で、患者ごとに進行の有無、程度、速度は多様であり、特定の時点の病状から、進行の有無や今後の進行を予見し確定することは医学的にできないという、重篤で特異な進行性が認められる。

このようなじん肺の特質が、原告ら患者の過酷な状況を招き、同時に、その法的な救済を困難にする理論的困難につながった。

最高裁は、慰謝料額認定の違法を理由に原判決を破棄するという珍しい事例判断(前記判時34頁)を行った。理由中で、「症状が重篤で長期間にわたって入院し、……入院しないまでも……呼吸困難のため日常の起居にも不自由を来すという状況にあり、そのまま……苦しみながら死亡した者もある」、「極めて窮迫した生活を余儀なくされた者が少なくない」と総括された患者の状況は、各患者の炭坑労働、症状及び生活状況の下級審での事実認定を通して、読む者に救済の必要性を強く感じさせる。

しかし、雇用契約上の安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は、権利を行使することができる時から10年間の経過により時効消滅する(当時の民法166条1項、167条1項)。不法行為に基づく請求権とは異なり、損害の認識の有無は時効の起算に影響しない(当時の民法724条)ため、初期の症状が発現しさえすれば、その後の進行が予見困難であっても、時効が進行しそうである。他者からの同一の被害について、二つの法律構成がありえ、消滅時効の期間及びその起算点が異なるという体系が採られているのは、どうしてなのか、適当なのか。最高裁は、医学的にも確定できない将来の重い症状は、「認識し得ないのではなく、そもそも発生していない」との理解を打ち出し(前記判時34頁)、体系に沿った解釈論の枠内に踏みとどまりつつ、初期の発症から10年を超えていた患者にまで救済を拡げた。

救済の必要を痛感しても、法律の論理に縛られる、これは不自由なことではあるが、この不自由さが、公正な解決という法の安定性を担保する。同時に、安定性担保のための縛りである法的理論枠組は、不動ではなく、社会と接する判例等を背景に変化する可能性を持つ。

平成29年の民法改正により、人身の被害については、構成による消滅時効の差異がなくなり、本判決が苦慮し知恵を絞った理論的困難が解消された。また、損害の特性に応じて権利行使制限の期間の起算点を遅らせる考え方は、その後の判例に継承され、最近では、幼少期に受けた性的虐待の責任を問う事件に活かされている(札幌高判平成26 年9 月25日判時2245号31頁)。前記の民法改正によっても残された課題に対する判例による創造的なルール形成への第一歩となるかもしれない。目を通してみていただきたいと思う。


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久保野恵美子(くぼの・えみこ 東北大学教授)
1971年生まれ。成蹊大学法学部助教授、東北大学大学院法学研究科准教授等を経て現職。著書に、『子ども法』(共著、有斐閣、2015年)がある。