感染症対策の法的ガバナンスと専門家の役割(米村滋人)

法律時評(法律時報)| 2020.05.27
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(毎月下旬更新予定)

◆この記事は「法律時報」92巻6号(2020年6月号)に掲載されているものです。◆

2020年6月号(1,750円+税)

新型コロナウイルス感染症による世界的混乱が続いている。日本でも、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発出され、外出自粛要請・休業要請等が実施されている。

しかし筆者は、政府の措置は感染症対策としての合理性、社会政策としての妥当性、政策決定手続の適正性のいずれにも問題があると考える。とりわけ、これまで政府・専門家会議から十分な情報が提供されず、公共的な議論も適正な手続もなく一部の関係者の独断で感染症対策が決定・遂行されていると言いうる点が問題である。

本稿では、感染症対策の法的ガバナンスにつき、紙幅の範囲で若干の検討を行いたい1)
 

1 政府の対応状況等の概要

これまでの政府対応の中心をなすのは、2月14日設置の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」(以下「専門家会議」という)である。専門家会議は、2月24日の「見解」で全国民に感染リスクの高い環境に行かないことなどを呼びかけて以来、たびたび「見解」や「提言」を発表している。4月1日の「提言」では、地域区分の考え方を前提に、「感染拡大警戒地域」に限定して、「3つの条件が同時に重なる場」を避けるための行動変容の徹底が必要とされている。

加えて、専門家会議の一部のメンバーは独自に情報発信を行い、特に西浦博・北海道大学教授が独自のシミュレーションをもとに「接触の8割削減」が必要であるとの見解を表明した。これは4月22日の専門家会議の「提言」に盛り込まれた。この提言では地域区分の考え方は消え、「接触機会の8割削減」の実現のため国民全体にテレワークや出勤者数7割減等が求められた。

他方で安倍首相は、2月下旬に大規模イベントの開催自粛と全国一斉休校を要請したが、これは専門家会議の見解等を踏まえたものではなかった。そのことに批判があったためか、3月以降、政府は専門家会議の見解や提言を踏まえた方針を採用している。上記の「接触の8割削減」は安倍首相の記者会見・国会答弁でもたびたび引用され、政府方針の重要な根拠とされている。

2 これまでの対策の問題点

(1) 感染症対策の多様性

以上の動きに関し、筆者が何を問題視しているかを順に説明したい。まず指摘すべきは、感染症対策のあり方は1つではなく複数の選択肢から特定の対策を選択する必要があるという点である。

感染症対策の柱となる法律は感染症予防法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)である。同法は、人権侵害的な強制隔離を中心とする旧伝染病予防法等(以下「旧法」という)に代わって1998年に制定された。ここでは、旧法に比して人権侵害的な要素は軽減されたものの、依然強制入院・強制検査が法律効果の中心であり、発症者・疑い者に対する強制措置により感染対策が実現できるとの前提を採用する点で旧法との違いはない。ところが、今回のコロナウイルス感染症では、無症状の感染者・未発症者も他者に感染させるため、発症者に対する強制措置のみでは感染拡大を防止することができない。そこで、発症の有無にかかわらず住民一般に対する行動制限を課す必要性が生じている。そして、この種の一般的行動制限の程度や範囲を決めるための感染制御目標には、複数のものが存在する。

第1に、なるべく早期に実効再生産数Rtを1未満にすることで感染症の完全制圧を目指す方針がありうる(以下、この方針を「完全制圧戦略」と呼ぶ)。これには、水際対策を徹底して国内に病原体を入れない方針のほか、仮に一旦病原体が入ったとしても、厳格な行動制限を課すことにより拡大を抑え、感染者をゼロにすることで感染症の封じ込めを目指す方針がある。

第2に、感染症の拡大(Rtが1を超えた状態)を完全に許容し、いわゆる「集団免疫」の獲得、すなわち一定数以上(通常は6、7割とされる)の住民が既感染となるか免疫を獲得した状態を目指す方針がありうる(以下、この方針を「集団免疫戦略」と呼ぶ)。集団免疫が獲得されれば、その集団では感染を終息させることができるとされる。この場合、一般住民の社会活動には制限をかけず、医療体制を充実させ発症者対応を手厚くすることで乗り切ることになる。

以上の2つの戦略はいずれも両極端の方針であるが、それらのいわば「中間」を目指す方向性として、第3に、一般住民に一定の行動制限をかけて感染を遅らせはするものの、完全制圧は目標とせず緩徐な感染拡大を許容し、長期間をかけて集団免疫の獲得を目指す方針がありうる(以下、この方針を「軟着陸戦略」と呼ぶ)。この方針では、緩和された行動制限をかけて感染を抑制しつつ、医療体制も充実させて増加する発症者に対応することになる。軟着陸戦略はある種の折衷案であり、完全制圧戦略に近いものから集団免疫戦略に近いものまで複数の段階が存在するが、最終的には集団免疫の獲得を目指すため、感染拡大を許容する点で完全制圧戦略とは決定的に異なる。

以上の3つの戦略は、いずれか1つのみが常に正しいわけではなく、病原体の性質や感染拡大の状況等に応じて使い分ける必要がある2)。たとえば、エボラ出血熱のようなきわめて危険性が高い外来の病原体に対しては完全制圧戦略が適切である一方、通常の風邪や季節性インフルエンザには集団免疫戦略が用いられる。そのような中で、今回のコロナウイルス感染症に対してどのような戦略を用いるべきかが問題となるのである。

(2) 社会的選択に対する専門家会議の姿勢

ところが、以上のような説明はこれまで政府・専門家会議からは全く出ていない。どのような感染症対策の選択肢があり、いかなる理由からどの戦略が選択されているかも明らかでない3)。これまで日本でとられてきた対策はクラスター対策が中心であり、一般住民の社会活動制限は緊急事態宣言後も「自粛要請」の域を出ていないため、基本的には軟着陸戦略を採用していると見るほかないであろう。しかしそのことは明らかにされず、かえって、政府からは完全制圧を目指すかのようなメッセージが出されることがある。

たとえば、4月7日の安倍首相記者会見では、「専門家の試算では、……接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができます。そうすれば、……クラスター対策による封じ込めの可能性も出てくると考えます」とされている。これは、クラスター対策が完全制圧戦略の一環で実施されているかのようである。しかし、完全制圧のためにクラスター対策が不十分であることは、多数の専門家が指摘している4)。しかも、全世界での感染拡大状況を踏まえれば、一時的に収束しても人の移動が再開すれば早晩感染が再燃することは避けられず、集団免疫獲得まで感染の終息は実現できない可能性が高い。クラスター対策は、軟着陸戦略をとっていると理解して初めて正当化可能であり、政府の説明は不正確、不十分と言わざるを得ない。

この原因は、専門家会議の姿勢にあると考えられる。本来、感染症対策の戦略のいずれを採用するかは、行動制限実施により予想される感染者数・死者数の減少幅と予想される社会的損失との比較衡量によって決められる必要があるが、それはすぐれて社会的・政治的な選択であり、感染症医学の知見のみから導ける問題ではない。事実、緊急事態宣言後の休業要請の対象業種をめぐる国と東京都の意見対立は、具体的な感染対策が政治判断なしには決められないことを表している。それにもかかわらず、専門家会議は「提言」等において、特定の政策選択を前提に種々の感染対策の要請を行っている。これでは、国民一般に対して十分な政策選択の可能性が提示されないまま、専門家会議が特定の政策のみを国民に押しつけていることになり、政策決定のあり方としてきわめて問題であると言わなければならない。

(3) 専門家の「踏み越え」問題

専門家が社会的選択に立ち入った判断を行う例は過去にも存在し、このような専門家の行動に対して、近時、科学技術社会論の立場から鋭い批判がされている。例としてしばしば挙げられるのは、原子力工学の専門家が「日本の原発は安全であって、原発建設は推進すべきだ」と述べるような場合である。東日本大震災に伴う原発事故を受けて「安全神話」が崩れ去る中、工学者に対する不信感が広がったことは記憶に新しい。工学者が行うべきは、原発の安全性評価の基礎データを公開しつつ危険性の程度を社会に対してわかりやすく説明することであり、「原発は安全だ」という印象のみを喧伝するようなことはすべきでない。まして、原発政策のような社会政策の適否は科学によって答えが出るものではなく、それを「専門家の立場で」語ることは不適切であった5)

同様のことは、科学専門家一般に妥当する。尾内隆之=本堂毅は、科学には常に不定性(科学的知見に内在する不確実性や多義性)があり、科学の限界を明確に認識する必要があるとしつつ、「科学専門家はしばしば、科学のそうした適用限界を超えて、社会の意思決定を代弁し、決定者を僭称してしまう」とする。尾内らは科学者が社会的判断に介入することを「踏み越え」と呼び、専門知と社会の関係性理解を誤ったものとして厳しく批判するのである6)

今回の専門家会議も、上記の通り政策選択に立ち入った判断を行っている点で、「踏み越え」を行ったものと評価せざるを得ない7)。加えて、本稿では詳論できないが、専門家会議の提言等には科学の不定性の理解やリスクコミュニケーションの面でも問題がある。今回のコロナウイルス感染症に関しては医学的に不明確・不確実な点が多く、基礎となるデータの信頼性に十分な配慮が必要である。にもかかわらず、特定のシミュレーション結果のみを根拠に「接触機会8割削減」を不可欠であると結論づけることは、科学の不定性を理解しないものであり、危険であるとさえ言える8)。もちろん、不確実な知見に依拠せざるを得ない場合も存在するが、種々の科学的知見の限界を適正に評価した上で、他の専門家等が事後的に検証できるよう判断過程を明確化することが必要である。専門家会議の提言等は、これらの点できわめて問題であると言わなければならない。

3 おわりに─感染症対策の法的ガバナンス

以上で述べた専門家会議の問題は、結局、感染症立法の不備に由来するものである。大規模感染症は一種の自然災害と見ることができ、災害対策と同様、平時から恒久的制度の下で法的ガバナンスの仕組みを用意することがきわめて重要である。そして、感染症の発生時には、迅速に情報を収集・解析した上で、全社会の英知を結集して政策選択を行えるような組織体を整備することも必要である。その種の組織体では、感染症医学の専門家のみならず、法律学や経済学の専門家のほか、財界や事業者の代表、教育・介護等の関係者、さらには一般市民の代表も加わる形で透明性の高い検討を行い、理由を明示して政策判断を行う必要があろう。

筆者は、新型コロナウイルスの感染者は、今後年余にわたり出現し続けると予想する。その過程では、感染者数の減少時にどの社会活動を回復させるか、再増加時にどの社会活動を再び中止するか、などを逐一判断する必要がある。そのたびごとに、少数の専門家と政治家が場当たり的に判断することは、いたずらに社会的混乱を拡大させて住民一般の信頼を損なう結果、感染症対策としての有効性も大幅に減殺される結果となろう。新型コロナウイルス感染症による死者とその社会的影響をできる限り少なくするために、感染症対策のガバナンス体制の整備は急務であると考える。

(よねむら・しげと 東京大学教授)

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脚注   [ + ]

1. なお、筆者は、既に「学校全休・イベント一律中止措置はやめるべきだ」(論座2020年3月18日掲載)を公表している。しかし、当該記事は原則的に有料記事であり読者が限られるなどの事情から、本稿は当該記事と部分的に重複した内容となっていることを予めお断りしたい。
2. 磯部哲「コロナの春法時1150号(2020年)2頁も、感染拡大の程度に応じて異なる対策の必要性を指摘しており、本稿と同旨と思われる。
3. 筆者が本稿校正段階で接した専門家会議の5月1日提言では、初めてこの点への言及がある。しかし、「感染の拡大を前提とした集団免疫の獲得のような戦略……はとるべきでないと考える」とされるのみで、何らの理由の説明もなく、本稿のいう「軟着陸戦略」をも否定する趣旨であるかも明確でない。本文の批判は依然として妥当する。
4. たとえば、渋谷健司・ロンドン大学教授は、クラスター対策は破綻しており、日本は既に手遅れに近い状況であるとする(「『東京は手遅れに近い、検査抑制の限界を認めよ』WHO事務局長側近の医師が警鐘」ダイヤモンド・オンライン2020年4月9日掲載)。
5. 原発の「安全神話」や事故後の対応の問題性については、尾内隆之=調麻佐志編『科学者に委ねてはいけないこと』(岩波書店、2013年)所収の各論稿を参照。
6. 尾内隆之=本堂毅「御用学者がつくられる理由」尾内=調編・前掲注5)22頁以下。
7. 尾内=本堂・前掲注6)26頁は、専門家の政策的判断は権力への迎合や追随である場合があるとする。専門家会議の4月1日提言にあった地域区分の考え方が、4月22日提言で何の説明もなく消え去ったのはなぜなのか。4月16日に緊急事態宣言の対象が全国に拡大されており、その政治判断に平仄を合わせようとしたのではないか、という疑念の余地を生んでいると言わざるを得まい。
8. 筆者は疫学の専門家ではないが、感染リスクに関しては、接触機会のほか、接触者の年齢・健康状態、手洗い・マスク着用等の基本的感染対策の有無など、種々の因子が影響するはずであり、それら他のパラメータをすべて捨象して接触機会のみを強調することには強い違和感を抱く。西浦教授は、それら他の因子につきどのような想定を置き、試算を行ったのかを詳細に明らかにすべきであるし、他の因子を操作することが感染対策として有効でないと判断した根拠も示すべきであろう。正確な評価のできない科学的知見は、政策判断の基礎から除外すべきである。