(第24回)戦後補償に風穴をあけた平等原則(德田靖之)

私の心に残る裁判例| 2020.06.01
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

台湾楽生院訴訟東京地裁判決

台湾に設置されたハンセン病療養所である台湾総督府癩療養所楽生院は、台湾に癩豫防法(昭和6年法律第58号による改正後の明治40年法律第11号)が施行された昭和9年10月1日以降、ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律2条にいう「国立ハンセン病療養所等」に該当するとされた事例—台湾ハンセン病補償請求訴訟第一審判決

東京地方裁判所平成17年10月25日判決
【判例時報1910号69頁掲載】

田舎の一介の弁護士にすぎない私が、ハンセン病問題に関与するに至ったきっかけは、一通の手紙との出会いだった。差出人は、療養所の中から隔離政策を告発し続けていたハンセン病作家故島比呂志氏である。手紙には、「らい予防法のような世界に例がない悪法をかくも長きにわたって存続させたことについて、人権に最も深いかかわりを持つべき弁護士に責任はないのか」と書かれてあった。

自らの余りに長きにわたる不作為を恥じ、その罪を償うべく提起した「らい予防法違憲国賠訴訟」(熊本地判平13・5・11判時1748号30頁)に何とか勝訴し、判決確定後の「ハンセン病補償法」の成立により、責任を果たしたと安堵していた私だったが、思いがけない批判にさらされることになった。

同法の責任に基づいて厚生労働大臣が定めた告示に、戦前日本が植民地としていた時代の韓国・台湾に設置した療養所が明記されず、これらの療養所入所者が、補償対象から除外されているのは、自国民中心主義であり、弁護団の怠慢ではないかとの批判である。

日本が戦前に、これらの地に大規模なハンセン病療養所を設置していたことは知っていたものの、補償法の国会での審議や厚生労働省における告示作成に関与していなかった私としては、このような批判を受けて当惑する外はなかったが、自国民中心主義という批判は重く、再び、不作為の責めを問われることとなった。

その結果として思いついたのが、補償金の請求をし、不支給決定を受けたうえで、その取消しを求める抗告訴訟を提起するという苦肉の策だった。

弁護団内部の検討では、賛否相半ばしたが、やるしかないと肚を固めて、韓国・台湾の現地に療養所を訪ねたところ、多数の該当者が存在することが判明したのである。

こうして提起されたのが、いわゆる「ソロクト・楽生院訴訟」である。

戦前における植民地政策の是非を問うことになるため、戦後補償裁判として注目を集めるところとなったが、弁護団以外に勝訴を予想していた人は、殆どいなかった。

多くの人がこのように考えたのは、議員立法として提出された「補償法」の国会審議において、植民地時代のこれらの療養所についてどうするのかといった議論が格別なされておらず、告示の作成過程でも全く想定されていなかったからである。

私たちが、それでも提訴に踏み切り、勝訴しうるのではないかと考えたのは、同じ政策、同じ法律に基づく被害を受けたのに、法律制定時に日本国内ではないという理由で、差別するのは、憲法14条に違反するのではないかというその一点にあった。

こうして提起された2つの行政訴訟の内、韓国に関する「ソロクト訴訟」は、東京地裁民事3部に、台湾に関する「楽生院訴訟」は、同地裁民事38部に係属した。

何度も現地を訪れ、韓国・台湾の弁護士と協力しながら、被害の実態を聞きとる作業は、決して楽ではなかったが、それ以上に私たちが苦痛を感じたのは、植民地であったということが、ハンセン病隔離政策の適用において本土以上に苛酷を極めたという事実を思い知らされたからだった。

日本国民の一人として、こうした事実をどう受けとめ、その責任をどう果たしていくべきかを考え続けながらの裁判であり、審理の進行とともに、敗訴は許されないとの思いに押しつぶされそうになる自分を感じるところとなった。

この2つの裁判は、それぞれ原告本人の尋問等を経て1年余りで結審したが、奇しくも、平成17年10月25日に、同じ法廷で相次いで判決が言い渡されることになった。

この内、不支給処分の取消しを命じたのが、「台湾楽生院訴訟」判決である。

判決は、補償法の提案者や立法過程では、戦前の楽生院入所者への補償については、「検討しておらず、一定の認識の一致は存しなかった」と推認したうえで、その故に、これらを同法の支給対象から除外していたと認定判断することは困難であると判示した(同日に言い渡されたソロクト訴訟判決の方は、同様の事実認定を前提としたうえで、「これらの者は、直ちに同法の適用対象となるものではないとの認識が前提にあったものと考えるのが素直な理解というべきである」と判示しているから、真逆の判断となった訳である)。

そのうえで、楽生院判決は、同法には明文上、国内の療養所に限るとか、戦前の台湾に設置した療養所を除外するといった規定が置かれていないのに、これを除外する趣旨だと解釈することは「平等取り扱いの原則上、一般論として好ましいことではない」から、限定的に解釈することに合理性はなく、楽生院入所者も告示1号に該当すると解釈すべきであると判示して、原告らの請求を認めたのである。

その後、2つの判決は、敗訴当事者が控訴したが、裁判所の判断が割れたという事実を重く見た国会が、私たちの要請を受け入れて、補償法の改正に踏み切り、告示が改められて両療養所が補償対象となったため、控訴取り下げで結着した。

そして、台湾・韓国両政府は、判決を受けて、戦後における自国政府のハンセン病政策の誤りを認めて、独自に補償立法を制定して、自国の隔離政策の被害者に対する賠償を行うに至った。

「同法は、取り敢えず内地療養所の入所者に対する補償を行うことを予定しているのであって、外地療養所への対応は、将来の課題にとどめられていたと解するのが素直である」とのソロクト判決の論旨と対比したとき、平等原則を重視して、解釈論上の壁を乗り越えた楽生院判決は、文字通り画期的であり、日本の司法は生きているということを、私に改めて感じさせてくれるものだった。


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德田靖之(とくだ・やすゆき 弁護士)
1944年生まれ。弁護士(大分県弁護士会所属)。
著書に『ハンセン病絶対隔離政策と日本社会:無らい県運動の研究』(六花出版、2014年)、『作られたAIDSパニック』(桐書房、1993年)、『エイズを生きる子どもたち:10代の感染者から学ぶ』(かもがわ出版、1994年)など。