『子育てに苦しむ母との心理臨床――EMDR療法による複雑性トラウマからの解放』(著:大河原美以)

一冊散策| 2019.12.12
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

 

 

はじめに

子どもをほしいと思って産んだのに,どうしてこんなにイライラするのだろう。よいお母さんになりたかったのに,また,怒ってしまった,怒りが止められない,どうしてほかのお母さんのように,子どもにやさしくできないんだろう……。子どもの泣き声を聞くのが怖い。「泣かせないように」と思って,目を離せないから,もうクタクタで,毎日が苦痛でならない。

こんなふうに,お母さんたちが悩んでいるとき,多くの方は自分の責任だと感じ,それゆえに,子育ての本を読めば読むほどつらくなってしまい,まわりの人からのアドバイスもみんな,自分を責めているように感じるばかりになってしまいます。

この本は,子育て困難は「人格の問題ではなく過去の記憶の問題」だということを伝えるための本です。過去の記憶の問題とは,「過去のつらい体験をたくさん我慢してきた」という問題です。

本書では,子育てをつらいと感じ,子どもに適切な関わりができないことで苦しんでいるお母さんたちに接する援助者の方たちが,「これまで,たくさんのつらいことを一生懸命我慢してきたんですよね」というスタンスで支援することで,道が拓けるということを伝えようと思います。

「子育てがつらい」「子どもといると気が狂いそうになる」と訴えるお母さんに,リフレッシュすることを勧め,「子どもを預けましょう」という支援が行われることは,一般的かもしれません。しかし,そのメッセージは同時に,「あなたには育てられないでしょうからね」と聞こえることもあります。自分より他者になつく子を見ることほど,母にとってつらいことはありません。ですから,子どもを他者に預けることだけでは,解決にはならないのです。

「子どもを叩いてしまう」という相談を援助者が受けたとき,そのことから目をそらさず「これまで,あなた自身がたくさんのつらいことを一生懸命我慢してきたのですよね」と,まっすぐに話を聴き,お母さんが涙を流せる関係を構築すること,それが大きな支援になります。本書では,その根拠を示します。

EMDR療法は,世界保健機関(WHO)のガイドラインにおいて,PTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療法として推奨されている方法論です。1989年に米国のフランシーン・シャピロ(1948-2019)が発表し,ここ30年の間に,世界で実践され,多くの科学的研究が重ねられてきました。EMDR療法は,「過去の記憶の再処理」を短期間で行うことを可能にする方法論です。「過去の記憶の再処理」をわかりやすく表現するならば,「過去のつらい記憶を思い出したときに“過去のこととして”おちついて思い出せるようになること」ということができます。

誰でもが怪我をする可能性があるように,生死に関わるような強い恐怖をともなう体験をすれば,誰でもがトラウマを抱えます。これを単回性のトラウマといいます。たとえば,骨折の場合,ギプスで固定するだけで治る「単純な骨折」と,手術して骨をボルトで固定する手当が必要な「複雑性の骨折」があるように,心の怪我を生むトラウマにも,複雑性トラウマという状態があります。複雑性トラウマは,きわめて幼い子どものころから,少しずつ小さな心の怪我をしてしまうような環境で育ち,その怪我がまだ治っていないうちにまた次の怪我をしてしまう状態を重ねていることにより生じます。

人には,つらい気持ちになったときに,泣くという能力が備わっています。ちゃんと泣くということは,とても大事なことなのです。泣くことによって自分の感情を表出すれば,大人から受け止めてもらうチャンスが生まれます。大人に受け止めてもらうことで,おちついて泣きやむ体験をすることができれば,心の中の小さな怪我は自然治癒することができます。

しかし,なんらかの家族の事情の中で,つらい出来事があっても,自由にそのいやな気持ちを表出することができず,いつも我慢して封印するという習慣を身につけてきてしまうと,小さな心の怪我が治らないまま,また次の怪我をするということになり,怪我が複雑に重なって複雑性トラウマになってしまうのです。

日本文化においては,「不平不満を言わずに頑張る」ことは望ましい在り方ですので,つらいことがあっても,泣かないで耐えることはむしろ推奨され賞賛されて,それにより自分の価値観として内在化されます。ですから複雑性トラウマを抱えながらも症状化することなく,いつも笑顔で頑張って,大人に評価される「よい子」として生きてきた方たちはたくさんいます。

しかし,そのように頑張って生きてきた方たちの中に,出産を契機に子育て困難に陥ってしまう方たちがたくさんいるのです。子育ての場面以外では,なんら問題なく生活できるのに,子育ての場面では著しく感情制御できなくなるので,自分を責め,母としての自信を失ってしまいます。

そういう方たちをどうやって救っていくのかということが,本書のテーマです。

本書では,EMDR療法を用いて,子育て困難を引き起こしていた複雑性トラウマから自由になった方の物語を示すことを通して,子育て困難は「人格の問題ではなく,過去の記憶の問題」だということを伝えていきます。

子育て支援に関わるすべての方に読んでいただくことを想定して,できるだけわかりやすい表現を目指しました。専門的なセラピーの担い手である臨床心理士や公認心理師・精神科医などだけではなく,福祉関係者・小児科医・保健師・保育士・子育て支援や虐待予防の関係者の方々にも読んでいただければと思っています。

実際には,EMDR療法という専門的な方法による援助を受けることができる方は,まだまだ限られているのが現実です。費用がかかることも多いため,その機会を得ることが難しい場合もあるかもしれません。また,子育て支援の最前線にいる保健師,保育士,小児科医の先生方は,忙しい日常業務の中でその援助を行わざるをえない状況にあることでしょう。それでも,この本を書こうと思ったのは,EMDR療法によりどのようにして治ったのかということを知ることは,EMDR療法を使わない場合にも役立つことがたくさんあるからなのです。

EMDR療法は,いわば「高速道路」を通ってゴールに到達する方法であるといえます。「高速道路」でゴールに到達した事例の経験を重ねることによって,どこに向かって行けばよいのかということがわかるようになったのです。それにより,「一般道路」を通っても着実にゴールに近づくことができるということを,本書では伝えたいと思います。

まず第1章では,子育て困難を乗り越えた6人の方の物語を対話の形で紹介します。ここでは,セラピーを終えたお母さんと私(大河原)(「美以先生」)が,そのセラピーを振り返って対話をしています。この対話は,読者の理解をうながすために工夫した創作です。

ここで描かれている事例は,私のもとで研究協力に同意された方たちへのセラピーを参考にし,特にEMDRセッションそのものについてはそのリアリティを保持させることに留意しながらも,事例の全体像は,守秘の観点からあらためて創作し直したものになっています。事例の守秘のため,リアリティを保証しつつ創作したものであることにつきまして,ご理解いただけると幸いです。

EMDR療法やセラピーについての専門的な解説を間にはさんでいますが,最初は読み飛ばしていただき,第2章・第3章を読んだあとで,再度,挿入されている解説も含めて事例を読み直していただくと,専門家として子育て困難を援助するというそのスタンス・方法を具体的にご理解いただけるかと思っています。

第2章では,愛着と感情制御のメカニズム,トラウマ,子育て困難が起こる理由などについて,援助者の方たちすべてに知っておいてもらいたいことを,できるだけわかりやすい言葉で解説することを目指しました。

第3章では,EMDR療法について解説しました。子育て困難という主訴に対して,EMDR療法を行うためのコツなどを,第1章の事例に即して説明しています。

本書の執筆の動機は,私の以下の論文が国際EMDR協会(EMDRIA)の学会誌に掲載されたということにあります。タイトルを訳すと「子育てにおける母のイライラをEMDR療法のターゲットにすることにより,トラウマの世代間連鎖に介入する方法」となります。日本人である私が日本人に対して行っている事例を,海外でも通用するものとして記述し,認めてもらうということは,とてもとても大きなチャレンジでした。この論文の中で主張したことを,わかりやすく具体的に,実践可能なものとして,日本人の援助者に伝えることが,本書の目的です。

Okawara, M. & Paulsen, S.L.(2018)Intervening in the intergenerational transmission of trauma by targeting maternal emotional dysregulation with EMDR therapy. Journal of EMDR Practice and Research, 12(3), 142-157. DOI:10.1891/1933-3196.12.3.142

なお,EMDR療法を実践するためには,国際EMDR協会認定のトレーニングを受けることが義務づけられており,本を読んだだけで実践することは禁じられています。そのため,本書でも,その方法の詳細は記載していません。トレーニングを受講したセラピストが読んでわかる程度の説明,一般の援助者の方の理解を深めるための記述にとどめているという点をご理解ください。

日本においては,日本EMDR学会が,日本におけるトレーニングに関する基準の制定を行う組織として,国際EMDR協会から承認されています。トレーニングに関する情報は,日本EMDR学会のウェブサイトhttps://www.emdr.jp/)でご確認ください。

正式なトレーニングを受けたセラピストは,この倫理についてよく理解しているはずですが,近年ウェブ上には安易に眼球運動などの両側性刺激の使用をうながす動画が見られます。本書を読んだ方が,ウェブ上の情報に基づきEMDR療法の模倣をすることは大変危険なことですので,ご注意ください。

目次

はじめに

第1章 母たちの物語 過去の記憶への旅

1.過去の記憶を旅するために
2.Aさん(34歳)の事例(一人娘3歳2ヵ月):娘の「大きな泣き声」への怒りと実母を喪失した悲しみの記憶
3.Bさん(35歳)の事例(一人娘2歳5ヵ月):「言うことを聞かない」娘への怒りと震災時の流産の悲しみ
4.Cさん(38歳)の事例(長女4歳6ヵ月・次女11ヵ月):娘の「指しゃぶり」への怒りと封印されていた出産時外傷の記憶
5.Dさん(34歳)の事例(一人息子3歳3ヵ月):愛する息子への「いじわる」と自分自身の出生時の記憶
6.Eさん(45歳)の事例(一人息子4歳8ヵ月):低出生体重と母の子ども時代の失敗の記憶
7.Fさん(42歳)の事例(一人息子6歳5ヵ月/小1):息子に「責められる」と止められない怒りと過去の罪障感

第2章 子育て困難と複雑性トラウマの理解

1.記憶とトラウマ
2.複雑性トラウマと自我状態
3.子育て困難のメカニズム
4.脳の中の感情制御のしくみ
5.単回性のトラウマと感情制御の脳機能
6.複雑性トラウマと感情制御の脳機能
7.自我状態の統合
8.複雑性トラウマの症状化
9.感情制御の脳機能の点からみた愛着の相互作用
10.子育て困難の援助の基本
11.援助の悪循環に陥らないために知っておくべきこと
12.夫婦の関係と家族への支援
13.世代間を連鎖するトラウマ(トランスジェネレーショナル・トラウマ)

第3章 EMDR療法による支援

1.EMDR療法で起こること
2.EMDR療法におけるセラピストとの関係性
3.子育て困難事例でのターゲットの設定と準備段階
4.クライエントさんの「脳」に任せるという姿勢
5.ET(早期トラウマ)アプローチ
6.両側性刺激の選択
7.「SUD(主観的障害単位)が0にならない」と感じるとき
8.誰もが抱える一次解離
9.日本人の解離と自我境界の文化差
10.日本人の解離と「和の文化」

あとがき
引用文献

書誌情報

関連情報など