(第6回)ことわざの由来(前編) Ovumne prius extiterit an gallīna?/卵が先か鶏が先か?
ラテン語の格言は最初から格言だったわけではなく, 多くの場合, もとはと言えば特定の作家がラテン語で書いた特定の文章の中で使われていた文章です. それを読んだ読者が抜粋し, 引用し, 場合によっては, しかるべき改変を施した結果なのです. それゆえ, 格言には, それがもともと使われた本来のコンテキストがありました. しかし, そのコンテキストになっていた文章そのものが, 格言から作られたという場合もあります. 格言が先に存在したのか, コンテキストが先に存在したのか? それはまさに,
Ovumne prius extiterit an gallīna ?
オウムネ プリウス エクスティテリト アン ガッリーナ
(卵が先か鶏が先か〔卵がより先に存在したのか, それとも鶏が〕?)
ということになります.
実は, このことわざももともとラテン語で伝わっていたものです. 「卵」を含んだ格言といえば, このことわざが最初に思い出されるのではないでしょうか. この永遠に終わりそうもない堂々巡りの議論をラテン語で引用し, 紹介した最も古い例は, ローマ帝政末期の作家マクロビウス (Macrobius, 400年頃) の『サートゥルナーリアSāturnālia』7.16 です. 卵(=始まり)の前にはかならず雌鶏(=始まり)が存在します. しかし, 雌鶏(=始まり)の前にはかならず卵(=始まり)がさらに存在する以上, どこまで遡っても究極の「始まり」に到達することはありません. 永遠に終わらない堂々巡りの無限進行です.
読み飛ばしていただいても結構ですが, 以下に文法の説明をしておきましょう。
あくまでもラテン語のことわざとしては, このマクロビウスの箇所に遡ると考えられます. しかし, この引用文のすぐ後で, 同じ事態を述べた疑問文が「utrum prius gallīna ex ōvō an ovum ex gallīnā coeperit(鶏が卵から始まったのか, それとも卵が鶏から始まったのか)」と言い直されているのですが, この言い回しの元となったと思われるギリシア語の疑問文が, マクロビウスより古い時代のプルータルコス(Plūtarchus, 46 -119年)がギリシア語で書いた『食卓歓談集』の第8節 (635e-638a) のタイトル「πότερον ἡ ὄρνις πρότερον ἢ τὸ ᾠὸν ἐγένετο (卵と鶏ではどちらが先に生まれたのか)」としても使われており, このプルータルコス『食卓歓談集』第8節の本文においても, この同じ堂々巡りの議論が紹介されていることから分かるように, このラテン語の格言の存在は, 古代ローマ以前に古代ギリシア人たちがすでにこのような議論を熱心に行っていたことを反映したものであることが分かります1).
さて, 「卵」を含むその他の有名なラテン語のことわざとしては, 少なくと2つが知られています.
Ab ōvō
アブ オーウォー
(卵から)Ab ōvō ad māla
アブ オーウォー アド マーラ
(卵から果物まで)
両者のあいだで ab ōvō の部分が共通の表現になっています. 確かに ab ōvō はお互いに区別がつきませんが, 実はこれらは同じ対象を述べているわけではありません. 前者 ab ōvō の「卵」は, 食べられない類の「卵」, 後者 ab ōvō ad mālaの「卵」は, 食べられる類の「卵」に関するものです. それでは, 両者の違いを説明しましょう.
脚注
1. | ↑ | Robert Kaster (ed. and trans.), Macrobius, Saturnalia, Volume III, Books 6-7 (Loeb Classical Library). プルタルコス(著) 柳沼重剛(訳)『食卓歓談集』(岩波文庫, 1987年). |
信州大学人文学部教授。専門は西洋古典学、古代ギリシャ語、ラテン語。
東京大学・青山学院大学非常勤講師。早稲田大学卒業、東京大学修士、フランス国立リモージュ大学博士。
古代ギリシア演劇、特に前5世紀の喜劇詩人アリストパネースに関心を持っています。また、ラテン語の文学言語としての発生と発展の歴史にも関心があり、ヨーロッパ文学の起源を、古代ローマを経て、ホメーロスまで遡って研究しています。著書に、『ラテン語名句小辞典:珠玉の名言名句で味わうラテン語の世界』(研究社、2010年)、『ギリシア喜劇全集 第1巻、第4巻、第8巻、別巻(共著)』(岩波書店、2008-11年)など。