書評:升永英俊『統治論に基づく人口比例選挙訴訟Ⅳ』日本評論社,2023年(評者:橋本基弘)

2023.10.24

敏腕弁護士というと、怜悧な刃物のような切れ味を連想する。しかし、升永英俊弁護士は、フランスの哲学者アランがプロポの中で描いた石工のように、分厚い岩盤を削る鑿のような切れ味のする法律家である。

これまで積み重ねられてきた、議員定数不均衡訴訟において、升永弁護士は、裁判の実務と憲法の学説の間を橋渡しする役割を担ってきた。その貢献は、平等選挙実現にとどまらない。民主主義とは何か、国家の正当性とは何かを考える上で、欠かすことのできない重要性を伴っている。むしろ、升永弁護士が、歴史を作ってきたというべきか。

『統治論に基づく人口比例選挙請求訴訟Ⅳ』は、升永弁護士が、2021年10月31日施行衆議院議員小選挙区選挙、2022年7月10施行参議院議員選挙区選挙の各人口比例選挙請求訴訟における上告人(原審原告)らの各訴状、各上告理由書、各準備書面、各弁論要旨をまとめたものである。とくに参議院定数不均衡訴訟において展開されてきた、人口比例選挙論を集約したものである。

その過程で、升永説は、人口比例選挙を、選挙権論の域から統治機構の問題へと移行させた。ここに升永説の特徴を見いだすことができる。これは、「較差がどこまで開くと平等選挙の原則に違反するか」という、ある種不毛な議論から、「国民の過半数が国会の過半数を選ぶのが民主主義の原則だ」との議論へと発想を転換するものであった。

この発想は、憲法学者には、思いもつかなかった。憲法学者は、選挙権論として、投票価値の平等とはどういうものなのかを考え続けてきた。その結果、最高裁が示す、さして理由のない、1対2とか、1対3のような較差の適否をあれこれ議論してきたにとどまっていたのである。これは、ある意味で、ゴールのないマラソンを走っているような議論であった。

升永説は、定数不均衡訴訟における理論的な隘路から抜け出るため、民主国家における選挙の意味、民主的正当性とは何かに関する議論から検討を開始する。マラソンのゴールを明確に定めるのである。選挙のたびに提起される議員定数不均衡訴訟とそのたびに出される最高裁大法廷判決に振り回されるのではなく、より大きな枠組みから、民主国家における選挙は人口比例選挙でなければならない、というゴールラインを引いた。これは慧眼である。

私が学部学生の時代、国民主権とは何を意味するのかが論争となっていた。杉原泰雄教授と樋口陽一教授の応酬は、同時代の法学部生の胸を熱くして、これをきっかけとして研究者の道に進んだ者も少なくない。しかし、当時の私には、ナシオン主権とプープル主権の対立を、現実の問題として考える力が不足していた。ましてやこの論争を日本国憲法の解釈論に落とし込むアイディアなど思い浮かべることもなかった。やがて、一種の理念論争として、いつしか興味すら薄れていった。

この論争が、抽象的な理念の問題にとどまらず、現実の解釈論としても大きな意味をもつということに気づいたのは、升永弁護士の人口比例選挙論に接したときであった。主権者意思の表明たる選挙は、国家権力の正当性の淵源であるだけでなく、実際の決定権として国民に委ねられなければ、これを主権とはいわない、ということを教えられたのが、人口比例選挙論であった。升永説に接したとき、恥ずかしながら、私は初めて国民主権における「正当性の契機」と「権力性の契機」とは何かが理解できたように思う。

「主権には権力性の契機と正当性の契機がある」と、憲法の標準的学説はいう。では、その先に何があるのか。「で、それがどうしたのですか?」と学生からストレートでナイーブな質問が飛んでくる。おそらく、升永説は、この質問に正面から答えられる、現在のところ唯一の学説なのではなかろうか。「国民の過半数が国会の過半数を選ぶ。国会は原則として過半数で意思を決する。この民主的意思決定の連鎖こそが主権の意味なのだ」と。

日本を代表する弁護士の一人である升永弁護士は、岩盤ともいうべき裁判所の厚い扉に、錐をとおして、突破口を開こうとしてきた。そこから一条の光が差し込んでくる。憲法を現実化するとは何を意味するのか、主権を実質化することはなぜたいせつか。本書には、議員定数不均衡訴訟にかかわるあらゆる論点が網羅されている。内容は、周到で綿密であって、アメリカやブラジルなどの例にも目配りされている。専門性は高い。しかし、本書は、志のある、若い法曹のみならず、これから法曹を目指す者、日本の政治の行き詰まりに嘆く者にとっても一読に値する書籍である。


評者:橋本基弘 (はしもと・もとひろ)中央大学法学部教授(憲法学)・副学長(博士・法学)