(第5回)香港LGBT判例の動向――香港基本法から香港国家安全維持法へ(廣江倫子)

特集/LGBTQ・性的マイノリティと法——東アジアにおけるLGBT法政策の現状と課題| 2022.04.20
LGBTQあるいは性的マイノリティの人権問題が日本社会の中で注目を集めるようになってから久しいですが、未だその人権保障状況が充分に改善しているとはいえません。本特集では、日本と関連性の深い東アジア諸国に目を向け、そのなかでの特徴のある最近の事例や具体的な問題を紹介しながら、それぞれの歴史や現状を踏まえ、今後の展望などを考えていきます。

前特集「LGBTQ・性的マイノリティと法――トランスジェンダーの諸問題」も、ぜひ併せてお読みください。

はじめに

2020年6月30日深夜に施行された香港国家安全維持法は、香港の「一国二制度」を大きく変えた。

1984年の中英共同声明は、1997年の香港返還後に「一国二制度」が50年間実施されることを約束していた。このため返還後も、香港法は、イギリス植民地時代と同じく、コモン・ロー(英米法)系に属するばかりか、中国法は限定的にしか適用されてこなかった。

しかし、香港に適用される中国法のうち、中国全国人民代表大会(全人代)の決定を受けて、中国全人代常務委員会(全人代常務委)が制定した、香港国家安全維持法は、香港に決定的な影響を及ぼしている。同法の制定によって、香港の抗議活動は封殺されたばかりか、著名な民主活動家が逮捕、起訴、収監されたことは記憶に新しい。そればかりか、映画の検閲や国家安全教育の実施、相次ぐ社会団体の解散や撤退、民主派新聞の廃刊など、社会全般に幅広い影響を与えている。

そして、香港国家安全維持法施行後、LGBTもまた、批判の対象になりつつある。例えば、アジア初開催の国際ゲイゲームの香港開催1)にあたり、建制派(親中派)議員の何君堯(ユニウス・ホー)は、大会は「不名誉な」催しで、同性婚推進に向けた、国家安全を脅かす「羊の皮をかぶった狼」であり、香港国家安維持法によって設立された中国の出先機関である、国家安全維持公署に相談すべきだ、などと発言している2)

ところで、「一国二制度」を詳しく規定するのが、香港の「ミニ憲法」たる香港基本法である。そして、返還後の香港LGBT判例は、香港基本法の手厚い人権保障のもとで大いに発展してきた。香港において、初めて憲法レベルで体系的な人権保障規定を置いた、この香港基本法に違反する香港法は、裁判所において違憲とされてきたのである。そして、この香港基本法の解釈において、香港法院は、中国法よりむしろ国際人権法・比較法を積極的に受容し、判例法を確立してきた。

それでは、香港国家安全維持法は、他の香港法と同様に、香港基本法の違憲審査の対象となるのだろうか。両法の関係はどうなっているのだろうか。いったい、LGBT判例への影響はないのだろうか。

上述した問題意識に立脚して、以下、まず、香港国家安全維持法と香港基本法の概要を述べたうえで、返還後の香港LGBT判例を概観する。次に、香港国家安全維持法の違憲審査の可否に関する香港の裁判所の判断を紹介し、香港国家安全維持法によってもたらされた香港憲法構造の大きな変化について指摘する。最後に、香港国家安全維持法施行後のLGBT判例の動向を紹介したうえで、今後の行方を考察したい。

香港国家安全維持法とはどのような内容か

香港への国家安全法制導入が正式に公表されたのが、新型コロナの影響により例年より3か月遅れた2020年5月の全人代開催前夜の記者会見だった。同月末に、全人代は香港国家安全法制の導入を決定、翌6月には異例の2回の全人代常務委が開催され、採択が急がれた。また同法草案は、非公開とされ、施行と同時に初めて公開された。

ところで、香港においては、中国法は例外的な場合にしか適用されない。それが、香港基本法18条が規定する、香港基本法附属文書3に全国性法律を追加し、香港で適用する仕組みである。全国性法律とは、全人代あるいは全人代常務委が制定する法律で、全国で適用される法律を指す。附属文書3に列せられた全国性法律は、そのまま公布されるか、あるいは香港立法会が立法化(条例を制定)して、香港法となる。香港国家安全維持法は、前者の方法がとられ、附属文書3に列せられ、香港立法会の審議を経ずに、香港で公布された。

香港国家安全維持法は、国家分裂、国家政権転覆、テロ活動、外国との結託の4つの犯罪の、防止、制止および処罰を目的とし、一定の場合には中国に移送され、中国法に則って刑事裁判が行われる。【表1】は香港国家安全維持法の構成を示している。前記4つの犯罪について、具体的にどのような行為が該当するのか、条文からは分かりにくい。刑罰は全体的に重く、最高刑は終身刑である。3)

また、中国の出先機関の国家安全維持公署が新設され、重大事件に該当する場合、同公署が捜査し、中国の検察と法院において中国刑事訴訟法に則って刑事裁判が行われる。2019年の逃亡犯条例改正案反対デモのきっかけが、同改正案が実現したなら、香港人が中国に移送され、中国で刑事裁判を受けることへの恐れだったように、香港人の中国司法への不信感は、非常に根強い。香港国家安全維持法の制定は、香港において恐怖感をもって受けとめられ、社会全般に萎縮効果をもたらしている。

【表1】香港国家安全維持法の構成

第1章 総則(1~6条)
第2章 香港特別行政区における国家安全の維持に関する責任と機関
第1節 職責(7~11条)
第2節 機構(12~19条)
第3章 犯罪と罰則
第1節 国家分裂罪(20~21条)
第2節 国家政権転覆罪(22~23条)
第3節 テロ活動罪(24~28条)
第4節 外国または大陸外の勢力と結託して国家安全に危害を及ぼす罪(29~30条)
第5節 その他の罰則規定(31~35条)
第6節 効力範囲(36~39条)
第4章 事件の管轄、法律の適用および手続(40~47条)
第5章 中央人民政府が香港特別行政区に駐留する国家安全維持機関(48~61条)
第6章 附則(62~66条)

(出所)筆者作成。

香港基本法とはどのような内容か

香港基本法は、香港の「一国二制度」を具体化する、香港の「ミニ憲法」である。前文、160ヶ条の本文および附属文書3件から構成される。その内容は、「一国二制度」のもとで「高度の自治」を50年間保障した、1984年の中英共同声明に基づく。

前文は、香港において中国の「社会主義の制度と政策を実施しない」ことを規定し、2条は、香港において「高度の自治」を実施すること、香港には「行政管理権、立法権、独立した司法権と終審権」があることを規定している。また、第3章「住民の基本的な権利と義務」は、基本的人権について手厚い保障を規定し、特に39条は、国連自由権規約と社会権規約が香港において継続して適用されることを規定する4)。そして、11条は「香港特別行政区の立法機関が制定するいかなる法律も、本法と抵触してはならない」と香港基本法の最高法規性を規定し、返還後香港においては数多くの違憲審査が行われてきた。

返還後香港LGBT判例はどのように発展してきたのか

LGBT訴訟は、同性婚こそ認められていないものの、香港基本法のもとで、画期的な違憲判決が相次いだ分野である。2006年に、男性間の性行為の合意年齢に、異性間のそれと差別を設けていた、犯罪条例の規定が、香港基本法および香港人権条例に違反すると判断された、ウィリアム・リョン対司法省事件(Leung T. C. William v. Secretary for Justice [2006] 4 HKLRD 211.)を皮切りに、訴訟は着々と増加し、権利保護が進展している。

いずれの判例も、ヨーロッパ人権裁判所で確立された、基本的人権侵害に対する違憲判断の方法であり、香港において詳細が確立された香港版比例テスト(Proportionality Test)が用いられている。そして、イギリスなど主要なコモン・ロー適用諸国の判例ばかりか、ヨーロッパ人権裁判所の判例が豊富に引用されているのが、特徴である。

代表的な事例を紹介すると、性別適合手術を受けたトランスジェンダー女性の男性との結婚を認めたW対香港結婚登記所事件(W v. Hong Kong Register of Marriage[2013] HKCFA 39.)、この事件は終審法院(香港の最高裁)でWの逆転勝訴となった。イギリスでパートナーシップを締結した同性カップルの配偶者に、香港の配偶者ビザを認めた、QT対移民局事件(Director of Immigration v. QT [2018] HKCFA 28.)、ニュージーランドで同性婚をした香港移民局官僚の配偶者に、香港で税の共同確定申告や公務員の配偶者としての医療補助が受けられるとした、リョン対公務員局長他事件(Leung Chun Kwong v. Secretary for the Civil Service and Another [2019] HKCFA 19.)、カナダで同性婚をした同性カップルが、従来の「単身者」カテゴリーではなく、「家族」カテゴリーで公営住宅へ申請することを認めた5)、ニック対香港住宅局事件(Infinger, Nick v. The Hong Kong Housing Authority [2020] HKCFI 329.)などがある。

ただ、同性婚は認められていない。2019年に、同性婚やパートナーシップなどそれに代替する方法がないことが、違憲だとする訴訟が提起されたが、一審では認められなかった。現在控訴中である。(MK v. Government of HKSAR [2019] HKCFI 2518.)。

香港国家安全維持法の違憲審査は可能なのか

香港のLGBT判例は、香港基本法のもとで進展をみせた。だが、香港国家安全維持法施行後、こうした傾向に変化はみられるのだろうか。そもそも、香港国家安全維持法は、香港基本法の違憲審査の対象となるのだろうか。

2021年2月9日、香港紙『アップル・デイリー』創業者の黎智英(ジミー・ライ)の保釈申請をめぐる終審法院の判断において、早くもこの問題に決着が下された。

黎智英事件においては、終審法院は違憲審査を否定した。すなわち「全人代および全人代常務委の立法行為としての香港国家安全維持法は、香港基本法または香港に適用される国連自由権規約との不一致の申し立てにもとづく審査の対象とならない」(HKSAR v. Lai Chee Ying [2021] HKCFA 3 at 37.)とし、香港国家安全維持法は、香港基本法の違憲審査の対象とならないことを明言した。

このように、香港国家安全維持法の違憲審査は、認められないことが明らかになった。こうして、【図1】に示すように、香港基本法に並び立つ法律が、香港で誕生したのである。

【図1】二大法律体系の出現――香港国家安全維持法と香港基本法

香港国家安全維持法施行後の香港LGBT判例はどうなっているのか

まず、2021年9月に、2つの判決が下された。1つは、イギリスで同性婚をした香港人カップルの配偶者に、現在カップルが居住している公営住宅の相続権がないとしていた条例が、違憲と判断された、エドガー対司法省事件(Ng Hon Lam Edgar v. Secretary for Justice [2020] HKCFI 2412; HCAL 3525/2019.)、もう1つは、著名な民主活動家でもある岑子杰(ジミー・シャム)が、ミューヨークでした同性婚が、香港において認められないことを違憲として争った、ジミー・シャム対司法省事件(Sham Tsz Kit v. Secretary for Justice [2020] HKCFI 2411; HCAL 2682/2018.)である。ただ、後者の同性婚は、認められなかった。

2021年6月には、前述したエドガーが、政府の住宅所有制度(補助金制度)を用いて購入した住宅において、海外で同性婚をしたパートナーが「配偶者」と認められず、共同所有者として認められるには追加費用が必要とした住宅局の政策が、違憲と判断された。(Ng Hon Lam Edgar v. The Hong Kong Housing Authority (25/06/2021, HCAL2875/2019) [2021] HKCFI 1812)

前後して、2021年5月には、20年近く連れ添った同性カップルが関係を解消するにあたり、こどもの共同監護権が認められている。(Aa v. Bb (21/05/2021, HCMP2342/2020) [2021] 2 HKLRD 1225, [2021] HKCFI 1401.)

このように、香港国家安全維持法施行後も、同性婚は引き続き認められないものの、周辺領域においては権利保護が進展している。国際人権法および比較法もまた豊富に引用されていることにも変わりはない。したがって、現段階においては、香港国家安全維持法の影響は、判例には直接的には認められないといえる。

おわりに

「一国二制度」を具体的に規定する、香港の「ミニ憲法」である香港基本法は、手厚い人権保障規定を置く。そして、そのもとにおいて、香港のLGBT判例は大いに進展してきた。

しかし、中国法の影響の強い香港国家安全維持法が誕生した。同法は、香港基本法の違憲審査の対象にならない。したがって、香港は実質的に、香港国家安全維持法と香港基本法が並び立つ、二大憲法を擁する時代に突入したのである。

香港国家安全維持法の目的は、国家分裂、国家政権転覆、テロ活動、外国との結託の4つの犯罪の防止、制止および処罰である。このため、条文上は、「一国二制度」全般を定めた香港基本法全体を、完全に上書きしている、とはいえない。しかし、香港国家安全維持法の適用状況をみるかぎり、社会全体へ「膨張」の一途をたどっている。香港国家安全維持法の境界は、一体どこにあるのか。予測は難しい。

香港のLGBT判例に限っていえば、現段階では、判例に、香港国家安全維持法の直接的な影響はみられない。今後、香港基本法のもとで進展してきたLGBTの権利保護は、引き続き進展するのか、それとも後退していくのか。今後の香港LGBT判例の動向は、香港基本法を「憲法」に抱き、イギリス法制度の遺産に立脚して、返還後もコモン・ロー世界とともに進展してきた香港法の、その方向性を見通す一助になるだろう。

特集「LGBTQ・性的マイノリティと法」の記事をすべて見る

脚注   [ + ]

1. 2022年に予定されていたが、新型コロナのため、2023年に延期。
2. Ng Ka-chung, “Hong Kong Gay Games ‘a wolf in sheep’s clothing’ and threat to national security, lawmakers warn” South China Morning Post, 25 Aug, 2021
3. 実際にも、刑罰は重い。香港国家安全維持法の初判決が下された2021年7月には、「光復香港 時代革命」の文言が記された旗をたてたオートバイで、警官隊に衝突し、軽傷を負わせた、元飲食店従業員の男性(起訴当時、23歳)が、国家分裂扇動罪およびテロ活動罪に認定され、禁固9年が言い渡された。(HKSAR v. Tong Ying Kit (27/07/2021, HCCC280/2020) [2021] HKCFI 2200, HKSAR v. Tong Ying Kit (30/07/2021, HCCC280/2020) [2021] HKCFI 2239.)
2021年11月には、香港独立を、商業施設などで唱えたり、SNSに投稿した、食品配達員の男性(同30歳)が、こうした言論活動のみで、国家分裂扇動罪と認定され、禁固5年9ヶ月が下されている。(香港特別行政區 訴 馬俊文 (25/10/2021, DCCC122/2021) [2021] HKDC 1325, 香港特別行政區 訴 馬俊文 (11/11/2021, DCCC122/2021) [2021] HKDC 1406.)
同月、3番目の判決も下され、Facebook上で香港独立を推進しようなどとした男性(同19歳)に、言論活動のみを理由に、国家分裂罪が認定され、他の犯罪と合わせて合計で禁固3年7ヶ月が下された。(香港特別行政區訴鍾翰林DCCC27/2021.)
4. さらに、香港では、返還前に香港人権条例(Hong Kong Bill of Rights Ordinance, Cap.383. 《香港人權法案條例》第383章)が制定され、自由権規約の国内法化もされている。
5. 「家族」カテゴリーでの申請の方が、入居までの待機年数が短い。

廣江倫子(ひろえ・のりこ)

大東文化大学国際関係学部国際文化学科(大学院アジア地域研究科)准教授