(第4回)近代日本の成立と北海道・アイヌ(檜皮瑞樹)

おさらい日本の近現代史―「日本」と東アジアの関係を読み解くために| 2021.11.24
日本の近代・現代とはどのようなものだったのでしょうか。
私たちが今、日々ニュースで接する日本の社会状況や外交政策を、そのような歴史的視点で捉えると、いろいろなものが見えてきます。
この連載では、「日本」と東アジア諸国との関係を中心に、各時代の象徴的な事件などを取り上げ、さまざまな資料の分析はもちろん、過去の事実を多面的に捉えようとする歴史研究の蓄積をふまえて解説していただきます。
現在の日本を作り上げた日本の近現代史を、もう一度おさらいしてみませんか。

(毎月下旬更新予定)

2020年7月に国立アイヌ民族博物館が開館した。日本における先住少数民族をテーマとした初めての国立博物館である。博物館を中心としたウポポイ(民族共生象徴空間)は、多くの観光客で賑わい、アイヌ文化や伝統芸能への社会的関心が高まっている。

アイヌ民族とは、蝦夷地(現在の北海道、サハリン島(樺太)、クリル諸島(千島列島))を主たる生活圏とした人々であり、日本列島を中心とした和語・和風文化とは異なる独自の言語・文化を有するエスニック集団である。

あまり知られていないかもしれないが、ウポポイには慰霊施設が併設されている。19世紀以降に和人の研究者によって収集(盗掘を含む)され、全国の大学等の研究機関で保管されてきたアイヌの遺骨や装飾品を集約・保管するための施設である。その一方で、遺骨の返還をめぐってはその方法(手続き)や謝罪のあり方をめぐって反発や軋轢が生じている。このような現代におけるアイヌを取り巻く諸問題は、17世紀以降のアイヌと和人社会との歴史に起因する。

1 近世の蝦夷地とアイヌ

近世(江戸時代)において蝦夷地やアイヌは、和人(松前藩)による直接の、あるいは政治的な支配の外側に存在した。近世初期において、幕府が松前藩に許可したのは“アイヌとの交易の独占”であり、アイヌ自身の交易活動に対する制限はなかった。松前藩はアイヌから租税(年貢)を徴収せず、またアイヌに関する宗門人別帳(戸籍)も作成されなかったことなど、松前藩にとってアイヌは自らの支配する領民ではなかった。松前藩が直接に支配したのは松前地や口蝦夷と呼ばれた渡島半島南部というごく限られた地域のみであった。19世紀以前の蝦夷地は和人にとって異域であった。

その後、松前藩は蝦夷地内の商場(アイヌとの交易拠点)における交易権を家臣団に知行として与えたことで、交易におけるアイヌの主体性が相対的に弱くなった。それまでの松前城下におけるウイマム型の交易1)から、蝦夷地内の商場におけるオムシャ型の交易2)への転換である。このような松前藩の収奪強化に対する反発がシャクシャインの戦い3)であった。

さらに、18世紀以降には松前藩主や藩士がアイヌとの交易権を商人に請け負わせる体制へと変化した(場所請負)。請負商人はアイヌとの交易から次第に漁場での直接経営に進出し、アイヌは漁場における労働力として動員された。その結果として松浦武四郎が批判したようなアイヌに対する過酷な労働強制や暴力が生み出され、同時に和人社会に対する経済的な従属が強くなった。

一方、松前藩はアイヌの和人化(和語の使用や和人風俗)を禁止したが、19世紀の幕府による直轄支配によってその方針は一転した。新たに設置された箱館奉行所は、アイヌが和人風俗を使用することを許可しただけでなく、和語の積極的な使用を奨励した。いわゆる、アイヌへの同化(和人化)政策が本格化するのは19世紀以降であった。

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脚注   [ + ]

1. 松前城下で行われた藩主への謁見の儀礼(ウイマム)に際して行われたアイヌと和人との交易(城下交易)。
2. 蝦夷地内で行われた松前藩士とアイヌとの儀礼(オムシャ)、及び松前家の家臣に付与された商場でのアイヌとの交易。
3. 17世紀半ばに日高地方のアイヌ・シャクシャインを中心とした松前家に対する武装蜂起。和睦の儀式においてシャクシャインは殺害された。

檜皮瑞樹(ひわ・みずき)
千葉大学大学院人文科学研究院准教授、専門は日本史。
主著に、『仁政イデオロギーとアイヌ統治』(有志舎、2014年)、『歴史を学ぶ人々のために』(共著、岩波書店、2017年)、『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』(共著、岩波書店、2014年)、『逸脱する百姓』(共著、東京堂出版、2010年)、『アジアの国民国家構想』(共著、青木書店、2008年)など。