時代を踏み越える企て(新田一郎)(特集:法制史のすすめ――歴史から繙く法律学)

特集から(法学セミナー)| 2021.09.16
毎月、月刊「法学セミナー」より、特集の一部をご紹介します。

(毎月中旬更新予定)

◆この記事は「法学セミナー」801号(2021年10月号)に掲載されているものです。◆

特集:法制史のすすめ――歴史から繙く法律学

権利と利害関係が複雑に絡み合う現代の法社会にあって、過去に生きた法のすがたを描き出すことは、現行法の歴史的位置やありかたを理解し、その未来に示唆をもたらすことにつながります。

過去と未来の懸け橋となる、“実践的な学問”である法制史の世界にご招待します。

――編集部

1 基礎法学の役割

「法制史」は、日本法制史・西洋法制史・東洋法制史などを含み、法社会学・法哲学・外国法などと併せて「基礎法学」という看板のもとに緩やかに括られている。誤解されることもあるようだが、基礎法学とは、法学の入門的な基礎学習科目、ではない。法という仕組みの成り立ちを、その基礎まで掘り下げて考究するために、仕組みの内側からではなく外側から、様々な角度をつけて観察することが、基礎法学の役割である。基礎法学のうちでも法社会学・法哲学が法の構造的な深部へと直接に踏み込もうと企て、比較法・外国法分野は法の諸相の共時的な差異に着目するのに対して、法の時間的な推移に着目することが法制史の特徴であり、そうした観察を日本について試みるのが日本法制史、ヨーロッパを中心とした西洋世界に材を取るのが西洋法制史、中国をはじめとする東洋諸地域を対象に据えるのが東洋法制史、ということになる1)。これら多角的な観察が相まって法の立体的な像を結び、法学の視野と可能性を拡げる。いずれにせよ、法の成り立ちを基礎まで掘り下げて考究することは、高度に専門的な営みである。

日本の法学を構成する分野としての基礎法学の関心は、日本法の基礎へと直接間接に向けられる。従って、通時的な観察としての法制史学の視線は、現代日本法の拠って立つ歴史的基礎へと注がれ、法学の歴史的な堆積に対する問いが発せられる。探求の試みは、近代初頭にヨーロッパ法(と法学)を継受して成った日本法の歴史的事情に導かれて、しばしばヨーロッパへと遡りその基層へと分け入ってゆく2)。かくして、日本の法学の一分野としての西洋法制史学は、日本法制史学と協働しつつ、ヨーロッパ諸国における自国法制史学とは聊か違った複雑な役割を担う。それは西洋において完結するものではなく、日本との単純な並列比較に終わるものでもなく、複雑に屈折した角度を以て日本法の歴史と交わるのである。

2 古事学と法制史学

では、近代から前近代へと遡る日本法制史は、そこにどう関わるだろうか。明治時代に編纂された一種の百科全書である『古事類苑』「法律部」の構成について、法制史学者瀧川政次郎は次のように述べている3)

「『古事類苑』法律部の配本を受けられた方々は、それを開いてみて、そこに集められている史料が刑法、訴訟法の関係史料に止まり、民商法等の私法に関するものが全然欠如していることに、軽い失望を感じられるのではないかと思う。だがそれは明治以後における日本のヨーロッパ法系の継受によって、日本人の頭が西洋風になっているからであって、東洋風に考えれば、法律部はそうあって然るべきである。(中略)『古事類苑』は、日本の古事を知ろうという日本人の為めに編纂せられた日本の出版物であって、西洋人が日本を理解する為めに編纂したものでもなければ、日本人が現代に処してゆく為めに必要な知識を供給する百科辞典でもない。(中略)刑法、訴訟法以外の法制に関することは、政治部その他に豊富に集められているから、法律部だけを見て失望することはない。」

ここでは、「法律」とそうでないものとの間に古事学的な観点から分割線が引かれ、「民商法等の私法に関するもの」は「法律」の埒外に置かれている。とはいえ私法的取引の世界が空虚であったわけでは無論なく、様々な商慣習や私法的実践が発掘され「政治部その他」に集録されている。近代の法制史学者たちも、前近代へと踏み込んで法と類似した研究対象を発見し、古事学とは異なる観点から把握しようと努めてきた。前近代と近代の法の間にあるのは、全き断絶ではないが、単純な連続や置換でもない。両者を分かつ断層を跨いで、機能的に似ているが構造的に異なるものを析出し、差異を測定することこそが、「頭が西洋風になった」現代の日本人が西洋人とともに「日本を理解」し「現代に処してゆく」ための学知の一翼を担う基礎法学の一分野として、日本法制史学が担うべき課題なのである。

3 時代の断層を跨いで

明治前期のとある裁判例に拠って、断層を跨ぐ問題の構図の例示を試みよう。

明治19(1886)年4月のこと。旧盛岡藩時代に士分として禄を食む一方で、別の名で農民の傍ら古着を商う「一身両名」の生活を営んでいた人物が、旧藩主とその相続人を相手取って起こした「財産取戻ノ訴訟」に対する判決が、東京始審裁判所において言い渡された4)

この訴訟において、原告は大略以下のように主張した。①旧藩政時代、藩士たる原告父が罪に問われて刑に処せられ、原告自身も拘禁処分を受けた。数年を経て拘禁を解かれ、農民としての居住地に戻ったところ、既にその名義は削除され、財産は押収されて藩主の「手元勝手用」に費消されていた。②旧盛岡藩の刑律を定めた『文化律』には農民の財産を没収する規定はなく、この処分は藩主としての権限に拠らず「藩主外一己人ノ資格」においてなされた不当なものである。③維新後の藩債整理にあたり、新政府は「各藩政治上ノ負債」は継承したが「藩主カ一己ノ負債」は継承しておらず、その分の債務は被告が負うべきものであるから、「一己人ノ資格」に基づき農民の財産を押収し「自己勝手ノ費用」に充てた分については、代価全額の速やかな弁償を求める。

これに対し被告は大略以下のように答弁し、原告の請求の棄却を求めた。①原告に対する処分は旧藩時代に確定したものであり、仮令過酷に過ぎたとしてもそれは「原告ノ不幸」であり今さら回復を求めうるものではなく、仮に処分が不法にして破毀すべき理由があるとしても、それを一私人たる被告に求めるのは不法である。②旧盛岡藩政は新政府に引き継がれたのだから、被告は今さら旧藩の処分の当否について答えるべき立場にはない。

これらの主張を受けて、裁判所はおおよそ以下のように判示した。①原告は、旧藩主の資格に「政治上ノ資格」「一己人ノ資格」の区別ありとするが、旧藩主は「其藩内ノ主治権ヲ有スルモノ」であり、資格にそうした区別はない。②『文化律』は藩主が任意に定め用いたものであり、幕府が藩主の権限を規定したものではないから、そこに明文の規定がないからといって、その処分が藩主の権限を逸脱し「藩主外一己人ノ資格」によったものとはいえない。③維新後、旧藩の負債は「藩属スルモノ」と「政府ノ負債ニ属スルモノ」に分かち処理されたが、この別は版籍奉還を経て郡県の制を敷く際に立てられたものであり、旧藩時代に藩主の資格に公私の区分があった証拠とはならない。④従って、農民名義の地所その他の財産を藩主が押収し費消したとしても、それは当時の藩主の権限内の処分であり、今に至りその代価の取戻しを求めることはできない。

判決は原告の請求棄却。原告は東京控訴院に控訴したが、同年11月に始審とほぼ同旨の判決5)をうけ上告を断念、明治27(1894)年に旧藩主家を糾弾する手記を刊行している。

この訴訟には、旧体制下で生じた事件について、新時代の制度や観念を遡及的に用いて再解釈しようとする、或る種のアナクロニズムが観察され、そこに生じる認知のズレが、近世と近代の差異を浮かび上がらせている。かつての農民(兼藩士)が、旧藩主による処分に対し、新しい仕組みを用いて失地回復を企て、前代の関係の再解釈を試みた。旧藩時代の諸関係が体制変革を越えていかに引き継がれたのかをめぐる認知のズレが、この一件の争点を形作っており、錯綜するアナクロニズムをいかに規整するかが問われた。そこに、法制史学的な営為が実践的な意味を持った局面を見ることもできよう。

4 裁判、のようなもの?

裁判の構造とその推移は、法制史研究の最も中心的な主題のひとつである。裁判に類する仕掛けは、歴史上の各時代に見られる。訴訟という用語は律令に用いられ、裁判という言葉もまた古代史に遡る。中世には武士たちが所領の領有をめぐって幕府に多くの訴を提起していたし、近世には様々なことがらについて公儀役人による裁きを求めて訴え出る人々が多数あった。しかしながら先の一件において、旧藩時代の処分について訴訟が提起されたのは明治になってからのことであった。そのことは、裁判の構造と密接に関わる。

近世において、藩主による処分に対し、農民や藩士は司法による救済を求める途を持たなかった。藩主のもとで行われていたのは、将軍から配分された所領の管理経営であり、そのために藩士や所領に附属せしめられた領民の規律が求められ、必要に応じ科刑を含む種々の処分が下された。先の判決で言及されている『文化律』は、藩主が藩士を規律しその非違を処断するために示した準則であり、藩主の権限を規整するものではないし、況や藩主を農民や藩士と相対する地位においてその処分を評価するための規範ではない。実は件の判決は草案段階で文言に修正が施されており、藩主による処分について「其臣民ニ對シテハ生殺与奪ノ無上権ヲ有シ随意ニ處分スルコトヲ得ルモノナレハ藩主ノナストコロ条理ニ背反シ如何ナル過酷ノ處分アルモ其臣民タルモノハ之レニ服従セサルベカラス左レハ」とあったくだりがそっくり削除されている。削除の意図は必ずしも明らかでない(表現が穏当を欠くと思われたのかもしれない)が、原草案は、法によって規整されるのではない藩主の一方的な処分の、近代の裁判との差異を、時代の断層を跨いで強調していたわけだ。

勿論、民はただ藩主の恣意に弄ばれていたわけではない。所領の管理経営に関わる処分は管下の民に対し一方的に下されるが、民の側から自他に対する処分について歎願することは可能であったから、その仕組みを応用し、民間の問題について公権的な関与を求めて訴願を提起することがあった。例えば紛争の相手方の非違を咎めて処分を求め、或いは自身への利益処分を求めて管理者に訴え出る、という類である。自分と相手とが相異なる管理に服している場合には、それぞれの処分の抵触をめぐって、聊か複雑な話になる6)

江戸幕府の法制について信頼のおける概説書である平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、2010年)も、「幕府法は行政・統治の組織・作用、および刑法において見るべき法を発展させた。それは発達した支配と秩序の法であった。しかし司法をその間から制度的に分離させることはついにできなかった。法が権利の体系でない限り、それは不可能でもあった」(76-77頁)と述べている。幕府には、罪ある者の処断を決する「吟味筋」、民間の紛議の処理を求める訴願を扱う「出入筋」の手続が用意されていたが、それらは、管理処分の仕組みから制度的に分離された「司法」の仕組みではない。管理処分の仕組みの「民事」への応用の可能性が、いわば恩恵的に開かれていたのであった7)

官による管理処分こそが「法」であり、民はその応用を求めて訴願するという、こうした仕組みは、専ら「刑法、訴訟法」を以て「法律部」を編む『古事類苑』の構成と、ひとまずの平仄が合う。その淵源は古代に遡り、律令制下の「訴訟」を原型として様々な変奏を生みつつ中世を経て近世へと至る推移こそが、日本法制史の重要な主題なのである。

そうした歴史を踏まえたところで、法制史学者は、近現代の裁判の仕組みに、あらためて向き合うことになる。例えば木庭顕『ローマ法案内─現代の法律家のために』(羽鳥書店、2010年)は、「両当事者AとBおよび(彼らの争いを判定する者)Cという三人の登場人物の存在が(いかなる裁判の概念を採ろうとも)不可欠であろうが、この三人が完全に互いに自由で、また結託の関係がどこにもないのでなければ裁判は成り立たない」(30頁)と喝破する。現代の裁判の源流をなすヨーロッパ型の裁判の基幹的な構造を捉えたローマ法学者の指摘は、日本法制史を学ぶ者に、避けて通れぬ課題を提示する。これを鏡として、「完全に互いに自由」ではない管理関係に沿った処分を応用的に求める日本近世の「訴訟」を見たとき、両者の類似と差異はどのように評価されるだろうか。そこにあるのは「不完全な裁判」か、それとも類型を異にする別種の「裁判」なのか、或いはそもそも「裁判」ではない別のものなのか。

こうした問いは、東洋とりわけ中国法制史へと、我々の関心を導くだろう。中国は、古代日本がモデルを求めた律令の母法国であり、ヨーロッパとは異なる条件のもとで長い歴史を重ね、やがて日本とは幾分か異なる角度を以て「近代法」と交差するに至った。その歴史を通じて観察され測定される日本やヨーロッパとの距離は、日本の像を立体的に映し出すための重要な測度を与えるに違いない。

5 基礎へ、そして基礎から

かつての農民兼藩士が旧藩主を相手取って起こした訴訟は、望んだ結果をもたらしはしなかったが、「支配と秩序の法」に代わる新たな条件、民が権利の主体として他者と対峙するという近代私法的な仕組みへの、彼なりの適応の試みであった。そうした仕組みへの転換は一時に画然と生じたものではなく、恐らくはスムーズに定着したものでもなかった。変化の意味を人々がどう理解したのか、変化を歓迎し新しい役割を積極的に引き受けたのかどうかも、簡単な話ではない。変化に伴って生じた問題の多くは解決に時を要し、或いは今なお宿題として残されているかもしれない。そこに新たな歴史の堆積がある。

法制史学は、法の歴史をたどり時代の断層を踏み越えようとする様々な企てから成る。歴史上の様々な時代は、現代から見た差異に沿って発見され、翻って現代を照らし出す。時代の推移とともに視点を変えて繰り返されるそうした営みは、今しも我々が負う課題である。明治とはまた異なる視点から、近代の歴史を重ね複雑の度を増した層位が、現代日本の法の基層としてあらためて発掘され、現代社会が生み出す様々な問題に関わる実践的な課題や新たな可能性がそこに見出だされれば、基礎へと掘り下げられた学問が応用実践へと還流する局面が開かれることにもなりえよう。無論、そうした現代的応用を担うべき役割は、法制史学者だけのものではないはずである。

(にった・いちろう 東京大学教授)

本特集は「法学セミナー」801号(2021年10月号)でご覧ください。

本特集の目次

  • 時代を踏み越える企て……………新田一郎
  • 鎌倉幕府法とその世界……………神野 潔
  • 日本で独禁法が「経済法」になるまで……………小石川裕介
  • 法制史は危険な香り……………田口正樹
  • 東洋法制史は役に立つのか……………赤城美恵子
  • 実定法学から見る法制史――すべての疑問は歴史に行き着く……………内田 貴

「法学セミナー」の記事をすべて見る


本特集を読むには
雑誌購入ページへ
TKCローライブラリーへ(PDFを提供しています。次号刊行後掲載)

 

 

脚注   [ + ]

1. 西洋・東洋についてさらに細分化して、「ドイツ法制史」「中国法制史」など国名地域名を冠して唱えられることもしばしばある。一方、日本法制史が地域により細分化されて論じられることはあまりないが、「日本」の同一性を問う余地は無論ある。「日本」の条件を斉一化する仕組みがいかにして形成され推移してきたか、という問題自体が、「日本」法制史の重要な関心対象たりうる。
2. その種の試みの重要な一例として、ローマ法学者が日本民法の歴史的基礎を掘り下げた原田慶吉『日本民法典の史的素描』(創文社、1954年)。
3. 瀧川政次郎「『古事類苑』法律部と佐藤誠実」古事類苑月報21(1968年)1頁。
4. 国際日本文化研究センター「民事判決原本データベース」簿冊番号10100081/簿冊内番号0250。なおこの訴訟は、尾脇秀和『壱人両名─江戸日本の知られざる二重身分』(NHK出版、2019年)において、原告の手記に拠って(明治26〔1893〕年のものとして)紹介されている。近世における「一身(壱人)両名」慣行の諸相についても同書に詳しい。
5. 国際日本文化研究センター「民事判決原本データベース」簿冊番号10000163/簿冊内番号0119。
6. だから「法」は人に均しく及ぶとは限らず、いかなる資格でいかなる管理下に属しているかが重要であり、異なる名を帯びる「一身両名」が複雑な問題を惹起することになる。
7. そこで求められたものは、近代的な「権利」とどう似ており、どう違うのか。それは、「民商法等の私法に関するもの」にどのような構造が与えられていたか、と深く関わる問題である。