「あずみの里事件」控訴審に対する「検察官上告」放棄の申入書

2020.07.30
長野県安曇野市の特別養護老人ホーム「あずみの里」の准看護師が、ドーナツを誤って間食として女性入所者に提供したことにより、死亡させたとして業務上過失致死罪に問われた「あずみの里事件」控訴審で、2020年7月28日、東京高裁(大熊一之裁判長)は一審有罪判決(罰金20万円)を破棄し、無罪を言い渡しました。
この無罪判決を受け、刑事法研究者有志が検察官の上告放棄を求める緊急の申入書を出しましたので、ここに掲載します(2020年7月30日)。

「検察官上告」放棄の申入書

2020年7月30日

呼びかけ人
一橋大学名誉教授・龍谷大学名誉教授 村井敏邦
神奈川大学教授 白取祐司

1 はじめに

東京高裁第6刑事部は、2020年(令和2年)7月28日、いわゆる「あずみの里」事件について、長野地裁松本支部判決(2019年[平成31年]3月25日)(罰金20万円の有罪判決)(以下、「原判決」という)を破棄し、被告人である准看護師Yさんに無罪を言い渡した(以下、「本判決」という)。本判決は、Yさんには結果に対する具体的な予見可能性がなく、業務上の注意義務があったとはいえないから業務上過失致死罪は成立しないとしたもので、その論旨・結論ともに正当かつ説得力に富むものである。私たちは、Yさんにこれ以上応訴の負担をかけないためにも、検察官には、この無罪判決に対して上告しないことを強く求めるものである。

2 本件起訴及び訴因変更の不当性

この「事件」は、2013年(平成25年)12月に特別養護老人施設「あずみの里」(長野県)の85歳の入所者Nさんがおやつのドーナツを食べ終わった後に意識を失い、2014年(平成26年)1月に死亡したというもので、現場にいたYさんが業務上過失致死の罪で起訴される(起訴は同年12月)。起訴状の訴因(主位的訴因)は、Nさんの動静を注視して窒息死事故を未然に防止する注意義務違反が過失にあたるというものであったが、弁護側の反論(反証)にあい、同訴因の維持が難しくなった検察官は、起訴から1年半後に、今度は「ドーナツの形態を確認せず、漫然とドーナツを配膳提供した」点に「過失」があるという訴因(予備的訴因)を追加した。この訴因変更は、1年半に及ぶ弁護側の防御活動を白紙に戻し、Yさんに、まったく内容の異なる新たな「過失」責任を問うもので、訴因変更として相当性を欠くものである。

事件当時の現場である食堂には17名の利用者(食事全介助2名、一部介助3名)がおり、介助職員1名とふたりで配膳し食事の世話をしていたYさんに、Nさんに対する動静注視義務違反(主位的訴因)を理由に起訴すること自体、そもそも無理があったというべきである。このときNさんは食事全介助にも一部介助にもなっていなかった。原判決が主位的訴因について無罪とし、検察官もこの点について控訴しなかった(できなかった)のも、その証左といえる。訴因変更がなければ4年前に結着がついていたはずの事件なのである。

検察官は公訴権を有し(刑訴法247条)、訴因変更権限(同法312条)も認められているが、実務上、後者については誠実な権利行使(刑訴規則1条2項)が必要とされており、また、二重の危険禁止の原則からは(憲法39条)、実質的に十分審理が行われた訴因についての訴因変更は許されないというべきである。判例上、検察官上訴は許されているが(最大判昭和25・9・27刑集4巻9号1805頁)、以上の見地から、とりわけ訴因変更(追加)によって実質2度の訴追が行われ、そのいずれについても裁判所によって無罪とされた本件においては、Yさんに対する上告権の行使は謙抑的でなければならない。

3 過失論の破綻と上告理由の不存在

本判決は、予備的訴因についてまず、原判決が「予見可能性を適切に捉えていない」と指摘する。すなわち、原判決は、「広範かつ抽象的な予見可能性」によってYさんに「本件結果回避義務」を課している点は形式的に過ぎ、具体的な予見可能性を検討すべきだとして論難し、検察官の本件施設利用者一般の予見可能性を問題とすべきであるとの主張についても、「過失の内容を的確に捉えないもの」として退けている。そのうえで、改めて、「本件過失の中核(非難の重点)」である「ドーナツ提供回避義務違反」について、その具体的予見可能性の内容、程度について検討を加え、結論として、Yさんが「自ら被害者に提供すべき間食の形態を確認した上、これに応じた形態の間食を被害者に配膳し、・・・被害者の窒息等の事故を未然に防止する注意義務」の存在を否定した。

この結論にいたる本判決の過失の成否の論証は、介護資料の運用実態、本件ドーナツの危険性、利用者の健康情報共有の仕組み、食品提供行為が持つ意味など、本件事実関係を踏まえた周密・丁寧なもので、間然とするところがない。

上告審は法律審であり、原審の事実認定が覆るのは「判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があること」だが、さらに「著しく正義に反する(著反正義)」の要件を満たす必要がある(刑訴法411条3号)。本判決とそこに至る経緯からみて、法律審である最高裁に対する上告理由があるとは考え難い。検察官としては、潔く速やかな上告権の放棄をすることが望まれる。

4 速やかな無罪判決確定の要請

本判決は、窒息死に疑義を提示する弁護側の主張立証を退け、破棄自判(無罪)した理由として、「本件公訴が提起されてから5年以上が経過し、現時点では控訴審の段階に至っている上、有罪の判断を下した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな前記事実誤認がある以上、上記疑義や他の控訴趣意について検討の時間を費やすのは相当ではなく、速やかに原判決を破棄すべき」だからだという。いうまでもなく、迅速な裁判を受ける権利(憲法37条1項)はプログラム規定ではなく、個々の刑事事件において被告人に対する具体的救済を認めた権利である(最大判昭和47・12・20刑集26巻10号631頁)。本判決が、弁護側の度重なる証拠調べ請求を退けてまで「速やか」な結着を選んだのは、最初の起訴から5年以上経過し、結論(無罪)を導くのに必要な審理は十分尽くされているから、これ以上Yさんに応訴の負担をかけ続けるのは相当でないと判断したからであろう。

そうだとすれば、検察官上告によって審理をこれ以上長引かせることをやめ、検察官として、速やかな上告権放棄によって1日でも早い無罪判決の確定をさせることこそ強く望まれるというべきである。

検察官上告放棄の申入書法学研究者呼びかけ人・賛同者(8月2日午後9時現在)

呼びかけ人
白取祐司(北海道大学名誉教授)
村井敏邦(一橋大学名誉教授)

賛同者
三島聡(大阪市立大学教授)
福島至(龍谷大学教授)
水谷規男(大阪大学教授)
笹倉香奈(甲南大学教授)
葛野尋之(一橋大学教授)
徳永光(獨協大学教授)
関口和徳(愛媛大学准教授)
伊藤睦(京都女子大学教授)
黒川亨子(宇都宮大学准教授)
公文孝佳(神奈川大学教授)
大出良知(九州大学・東京経済大学名誉教授)
高平奇恵(東京経済大学准教授)
福井厚(京都女子大学名誉教授)
前原宏一(札幌大学教授)
石田倫識(愛知学院大学教授)
松宮孝明(立命館大学教授)
石塚章夫(元裁判官・弁護士)
小浦美保(岡山大学准教授)
川崎英明(関西学院大学名誉教授)
森下弘(立命館大学教授)
山口直也(立命館大学教授)
高倉新喜(山形大学教授)
豊崎七絵(九州大学教授)
足立昌勝(関東学院大学名誉教授)
石塚伸一(龍谷大学教授)
佐々木光明(神戸学院大学教授)
赤池一将(龍谷大学教授)
内山安夫(東海大学教授)
小山雅亀(西南学院大学教授)
中川孝博(國學院大學教授)
佐藤元治(岡山理科大学准教授)
前田朗(東京造形大学教授)
宮本弘典(関東学院大学教授)
浅田和茂(大阪市立大学名誉教授)
中村悠人(関西学院大学准教授)
新倉修(青山学院大学名誉教授)
村岡啓一(白鴎大学名誉教授)
金澤真理(大阪市立大学教授)
吉村真性(九州国際大学教授)
新屋達之(福岡大学教授)
高田昭正(立命館大学教授)

(追加)
木谷明(元裁判官・弁護士)
上田信太郎(北海道大学教授)
城下裕二(北海道大学教授)

本申入書は8月3日、東京高等検察庁に提出された(賛同者41名)。