自由をめぐる香港の歴史(中村元哉)

特集/香港について知っておきたいこと| 2020.02.25
特集:香港について知っておきたいこと
2019年、香港での大規模なデモの様子が次々と報道されました。
逃亡犯条例の改正案をきっかけに、その廃案が発表されたのちも抗議は続き、議員選挙で民主派が大勝して、年が明けても続いていました。香港の市民は何を求めて抗議しているのでしょうか。まずは、その背景となる歴史を読み解きます。

なぜ自由から香港史を読み解くのか?

香港の歴史は、アヘン戦争(1840年)よりもはるか前にさかのぼれる。アヘン戦争とは、自由貿易を原則とするイギリスが香港島の割譲と主要都市の開港を清朝に求めた出来事である。この戦争以前から、香港を含む中国南部には、東南アジア諸地域へと広がる独自の経済・文化圏が存在した。

しかし、もし「リベラルな価値と制度は西洋からもたらされたものである」と暫定的に定義するならば、それらが漢字の「自由」として香港を含む東アジア世界に受容されたのは、やはりアヘン戦争前後の近代西洋文明と伝統中国文明の接触を一つの契機としていた。そのアヘン戦争から数えて約180年後が現在であり、2010年代の香港はまさにこの自由をめぐって中国と対峙し、台湾とは海峡を挟んで連携しているかのようである。事実、2020年1月の台湾の総統選挙では、独立志向の強い民進党の蔡英文が中国との交流を促進しようとした国民党の韓国瑜を歴史的な大差で破り、その台湾情勢が中国にとっては想定外だったとされる一方で、香港にとっては追い風になった、とも言われている。

2014年の雨傘運動に象徴されるように、香港の人たちは一般的に自らの行政長官を「真の普通選挙」で選出し「真の民主政治」を実現したい、と願っている。昨年から続く「逃亡犯条例」改正に反対するデモも、同条例改正案が香港政府によって正式撤回されたにもかかわらず、収束の気配をみせないことから、「真の普通選挙」と「真の民主政治」こそが香港の人びとにとっての最大の要求である、とみなされている。

確かに、そうした香港理解は十分に成り立つであろう。この理解は、体制の脅威にさえならなければ享受できた「権力の不干渉」や各種のバランスを保ってきた司法の独立をどのように維持するのか、また、1980年代前後に推し進められた一連の中英返還交渉とその手続きでイギリス式の民主政治をどのように移植するのか、そして、香港返還(1997年)後の「一国二制度」下で約束された50年間の高度な自治をどのように運用するのか、という歴史的文脈のなかから導き出されてきた。おそらく、このような香港理解が、香港アイデンティティの探求ともあいまって、日本でも広く定着していることだろう。倉田徹ほか『香港――中国と向き合う自由都市』(岩波書店、2015年)、同ほか編『香港危機の深層――「逃亡犯条例」改正問題と「一国二制度」のゆくえ』(東京外国語大学出版会、2019年)などが定評のある分析であり、私も信頼を寄せる研究成果である。

このことを先ず前提として確認した上で、しかし、香港のすべての人びとが必ずしも「真の民主政治」の実現で一枚岩となっているわけではないという現実をどう考えればいいのだろうか。私は香港研究者でも香港ウォッチャーでもないため現状の香港を正しく認識し解説できる立場にはないが、一人の中国近現代史研究者として指摘しておきたいことは、今回のデモがリーダー不在の下で自発的に継続していることの根底には、多くの人びとが緩やかにまとまれる何らかの共通項があり、そこにはもう少し「深い」歴史の水脈が潜んでいるのではないか、ということである。その緩やかな共通項を探るとするならば、その一つは間違いなく「自由のあり方」をめぐる多くの人びとの苦悩であり、その苦悩を蓄積してきた過去の政治思潮の延長線上に今日の現象があるということである。しかも、この政治思潮は中国、香港、台湾という「両岸三地」のトライアングル関係のなかから導き出されてきたのであり、まさに現状の香港は「両岸三地」の近現代史の流れのなかに無理なく位置づけられるのである(拙著『中国、香港、台湾におけるリベラリズムの系譜』有志舎、2018年参照)。

中華民国から中華人民共和国への移行と冷戦下の香港

香港は、アヘン戦争を経て、イギリスの支配をうけることになった。その植民地支配の功罪はひとまず措くにしても、20世紀全般を通じて、香港は中国の政治家、資本家、知識人たちの避難所として機能してきた。20世紀前半の中華民国では、結社の自由が長らく制限されてきたことから、政権を担っていた国民党以外の政治グループ――共産党および中国民主同盟をはじめとする国共以外の第三勢力――は、中国で弾圧をうけると、香港に避難して捲土重来を期した。とりわけ、第二次世界大戦終結後の1945年から1949年の香港は、中国近現代史を大きく揺さぶる一つの動力となった。

戦勝国となった中華民国は、戦後世界において五大国の一員となり、「日本帝国」の瓦解によって満洲や台湾を取り戻すと同時に、イギリスから香港を回収しようとした。しかし、中華民国はその対英交渉を結実させられず、それどころか、戦後に中華民国憲法を制定して憲政を実行したものの、国共内戦の状況下でかえって自らの権威を失墜させてしまった。

この時期に政治の中心にいた国民党は、政敵だった共産党や第三勢力をしばしば弾圧した。すると、弾圧された側は香港に難を逃れ、香港から中国に向かって国民党を自由に批判した。国民党は、これらの批判を抑え込もうとしたが、イギリス植民地下にあった香港では有効な手段を講じられなかった。やがて、国民党の内部からも、その主流派である蔣介石を批判するグループが香港に流れ着き、香港の政治情勢はますます混沌とした。こうして中華人民共和国が成立し(1949年)、中華民国は台湾へと移動を余儀なくされた。

この時期に国民党が得た教訓は、香港における政治空間の重要性である。だからこそ、冷戦構造が香港に覆いかぶさるなかで、台湾の国民党は、アメリカの支援をうけながら、香港に対する政治活動や文化活動に積極的に取り組んだのだった。つまり、当時イギリスが中華人民共和国を承認したとはいえ、台湾の国民党はそのイギリスも含めた西側陣営の一員として自由主義勢力の一翼を担い、香港に滞留していた自由主義者を取り込むことで中国大陸への反攻の機会をうかがったのだった。もちろん、共産党も香港における地下活動を継続し、国民党の政治的な企みを阻止しようとした。

ところが、台湾の国民党が中華民国憲法による憲政を事実上停止して独裁化の道を歩み始めると、香港の自由主義者は共産党を批判すると同時に国民党をも批判し始めた。この政治グループは、国共両党を除いた真の自由主義者による中華民国の復興を目ざすようになり、台湾内部で新たな政治勢力を結集しようとしたグループとの結びつきを強めていった。こうした台湾海峡を挟んだ自由主義勢力の連帯に危機感を示したのが、国民党の蔣介石だった。台湾の国民党は、徐々に香港政策を強化し、冷戦下において反共のロジックで共同歩調をとれたはずの香港の自由主義者を圧迫するようになった。

以上のようにして香港の自由主義者は活動空間を急速に狭め、イギリスの植民地支配に対しても有効な代案を香港社会に示せなかったことから、その影響力を次第に失っていった。中国で文化大革命が発動された1960年代後半から1970年代にかけて、香港は多数の避難者を受け入れたが、その状況下で「愛国左派」と呼ばれる共産党もしくは中華人民共和国に親近感を覚える人びとも一時的に存在感を増した。

香港をめぐる中国と台湾のねじれ

それでは、共産党は、どのように香港と向き合ってきたのだろうか。共産党の基本方針は、イギリスから強引に香港を回収するのではなく、西側諸国や華僑華人の諸地域との窓口として香港を実利的に利用することだった。事実、毛沢東は、香港を活用して対外貿易を発展させようとした。たとえば毛は、1963年の時点において、香港はいずれ中国に返還されるのだから、しばらくその主権の回収に動き出す必要はなく、むしろ「今もし我われが香港をコントロールすれば、世界貿易や我われと世界との貿易にとって不利になるだろう」と発言していた(『毛沢東年譜(1949-1976)』第5巻、中央文献出版社、2013年)。この香港に対する観方は、1967年に香港で反帝国主義運動(六七暴動と呼ばれる反英抗争)が発生し、共産党機関紙『人民日報』の社論「イギリス帝国主義が挑んできた戦いに断固として反撃する」(1967年6月3日)が同運動を支持した後も基本的には変わらなかった、と考えられている。

このような共産党の長期的戦略を背景として、中華人民共和国の成立前後に上海などから香港へと逃れていた自由な経済活動を重視する中国の資本家たちは、改革開放期に入ると、中国への投資を再開するようになった。しかし他方で、香港の「愛国左派」が退潮し、改革開放をすすめる中国において自由化と民主化を期待する声が香港で高まると、香港の自由を求める政治思潮は、天安門事件(1989年)後の中国に対する失望感と台湾の民主化への好感とも重なって、ますます広がったように思われる。少なくとも1990年代の香港返還前後から、中国との経済活動に重点をおく自由論と政治体制の民主化にも重点をおく自由論とが混在するようになった、とは整理できるだろう。

以上のように自由をキーワードにして香港の歩みを長期的に振り返ってみると、香港を取り巻く環境がある種の「ねじれ」を繰り返しながら現在に至っていることが分かる。要するに、次のとおりである。20世紀前半の香港は、国民党や中華民国に反発し、共産党によって政治利用される国際都市だった。やがて国民党が台湾へ移ると、冷戦期の香港は、反共の自由で共闘できたはずの台湾と溝を深め、共産党の中華人民共和国の長期戦略と共鳴することもあった。こうした香港をめぐる過去の中台関係が、改革開放を経た今日、再び徐々に変容し始め、その変容はかつての台湾と中国の立場を反転させたものとなっている。現在の共産党と香港の関係は、かつての国民党と香港のそれと類似しているかのようである。


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中村元哉(なかむら もとや)
1973年生まれ。1997年東京大学文学部卒、2003年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。南山大学外国語学部准教授、津田塾大学学芸学部教授を経て、2019年より東京大学大学院総合文化研究科准教授。
専門は中国近現代史。主要業績に、『戦後中国の憲政実施と言論の自由1945-49』(単著、東京大学出版会、2004年)、『対立と共存の日中関係史――共和国としての中国』(単著、講談社、2017年)、『憲政から見た現代中国』(編著、東京大学出版会、2018年)などがある。