裁判はなぜ傍聴できるのか(木下智史)

特集/裁判傍聴に行こう!| 2019.10.01
特集:裁判傍聴に行こう!
そもそも裁判はなぜ傍聴できるのでしょうか。「裁判の公開」について、日本国憲法はどのように定めているのでしょうか。

裁判の傍聴に出かけるのは、少しドキドキする経験だ。なんと言ってもそこで行われているのはドラマではなく、生身の人間が裁かれているのだから。

それにしても、わたしたちは、なぜ裁判を傍聴できるのだろう。裁判所が、将来の法曹志願者のため、実地教育をしようとしてくれているわけではないだろう。マニアのために、事件の特ダネを知らせてくれるためでもない。

わたしたちが裁判を傍聴できるのは、裁判が「公開」で行われることを原則としているからである。「公開」とは、国会中継のようにテレビ・ラジオで実況することかと思っているかもしれないが、裁判を公開するとは、傍聴を許すこととされている。

1 憲法は裁判の公開をどのように定めているのか

実は、憲法をみてみると、裁判の公開について、(条文が少ない憲法にしては)かなり詳しく定めていることがわかる。

第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
第82条1項 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
2項 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

37条は、刑事裁判の条件に関する規定だ。そして、憲法82条1項は「裁判」一般についての規定だから、民事裁判も公開されるべきことになる。公開の対象とされている「対審」とは、訴訟当事者が、裁判官の前で、口頭によりそれぞれの主張を対立的に述べる手続、つまり刑事裁判における「公判」(刑訴法282条)、民事裁判における「口頭弁論」(民訴法87条)を指す。「判決」は、いうまでもないかもしれないが、裁判所の判断を示す手続である。みなさんが傍聴するのは、上のいずれかの手続ということになる。

憲法82条2項をみれば、場合によっては、裁判が非公開となりうることもわかる。しかし、その条件は厳しい。たしかに「公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合」は、幅広く解釈することもできそうだが、但書で「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審」を絶対に公開すべきとの注文が付いている。例えば、わいせつ文書頒布罪(刑法175条)に関する事件は、一見「公の秩序又は善良の風俗を害する」ものといえそうであるが、「出版に関する犯罪」(または憲法第3章で保障する国民の権利が問題となっている事件)として、結局、その公判を非公開にすることはできなくなっている。

このように、日本国憲法の裁判の公開へのこだわりは、他の国の憲法と比較しても例がないほど厳格である。大日本帝国憲法も裁判の公開に関する規定(59条)を置いていたように、第二次世界大戦前の裁判がすべて密室で行われた「暗黒裁判」というわけでもない。しかし、出版に関する犯罪や政治犯罪に関する裁判を絶対的に公開すべきとしているところからみて、天皇暗殺を企てたとして非公開裁判によって幸徳秋水らが死刑となった大逆事件(1910年)や治安維持法などによる政治弾圧に対する反省が背景にあったことは確かであろう。

もっとも、裁判の公開によって訴訟当事者の権利が侵害されたり、また、それを恐れるあまり訴訟制度の利用を控えることになったりすれば、本末転倒である。当事者のプライバシー、知的財産権のため民事裁判において非公開審理が行われたり(人事訴訟法22条、特許法105条の7)、刑事裁判における被害者や証人の保護のため遮へい措置(刑訴法157条の3)やビデオリンクを通じた証言(刑訴法157条の4)など、裁判の公開を緩和する動きもある。

2 裁判の公開はなんのために必要なのか

憲法37条が要求する「公平」な裁判、「迅速」な裁判が刑事被告人のみならず、裁判を利用する者すべてにとって大切なことはよくわかる。しかし、なぜ「公開裁判」が訴訟当事者にとって重要なのかはそれほど簡単ではない。自らの罪をみず知らない人々の前で明かされることを望む被告人はあまりいないだろうし、自分の抱えているトラブルを公の場で明らかでされることを望まない人も多いだろう。他方、裁判に携わる人々は、裁判官、検察官、弁護士ともに難関の司法試験に合格した専門家集団だ。彼らに任せておけば間違った裁判など、起きようがないようにもみえる。

ここで、ちょっと憲法の教科書をみると、裁判の公開は、「裁判の公正を確保するために、その重要な部分が公開される必要がある。」1)と書いてある。要するに、裁判の公開は、それ自体に価値があるのではなく、裁判を公正に行わせるための手段として役にたつから憲法に定められているということだ。

裁判が密室で行われていると、(迅速さはわかるかもしれないが)公平さ、公正さが確保されているかどうかはわからない。誰かに見られていると、人は自ずから居ずまいを正したり、きちんとしていようとする。裁判に携わる専門家の人々も同じである。裁判の公開とは、裁判が公平で公正なものであるようにするための制度的保障(なにか制度を定めることで実体的な価値を護るという手法)なのである。

最高裁自身は、「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある」と、裁判の公開の意義を説明する。これは、裁判が公開され、実際に、裁判が公正に行われていることが国民に知られることを通じて、裁判に対する国民の信頼も高まるという意味であろう。

ただし、裁判所で行われる訴訟手続のなかには、ハンセン病元患者やその家族が強制隔離政策について国からの賠償を求める裁判や、同性婚を認めるよう求める裁判のように、政治の場面では解決できなかった(あるいは、気づかれもしなかった)少数者の人権問題の救済が求められる裁判もある。こうした事件における裁判の傍聴人は、単なる傍観者ではなく、法廷でなされた訴訟当事者の「声」を受け止め、それを法廷の外に届け、自ら問題解決のために行動することもある。それほど注目されない事件であっても、裁判当事者の声に耳を傾けると、事件の背景にある社会問題に気づくこともあるかもしれない。

3 法廷でメモはとってもいいか

せっかく裁判を傍聴にいったら、どんな事件で、関係者はどんな様子だったか、裁判官、検察官、弁護士の手続の進め方のよかったところ、悪かったところをメモしておきたいと思うだろう(あとで、レポートを書くときにも役に立つし)。

実は、日本国憲法下においても、かなりの間、法廷でメモをとることができるのは、報道機関に限られ、一般の傍聴人はメモをとることが許されなかった。傍聴人にメモを許すと、「審理、裁判の場にふさわしくない雰囲気を醸し出したり、証人、被告人に不当な心理的圧迫などの影響を及ぼしたりすること」があるかもしれないといった理由からだ。この長年の慣行がひっくり返ったのは、ローレンス・レペタさんというアメリカ人が最高裁まで争ってくれたからだ2)。メモをとるというささやかな自由も、困難な裁判上の闘い抜きでは勝ちとることができなかったことに思いをはせながら、法廷での様子をしっかり見届けて欲しい。


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脚注   [ + ]

1. 芦部信喜[高橋和之補訂]『憲法[第7版]』(岩波書店、2019年)364頁。
2. 最大判1988(平成1)年3月8日民集43巻2号89頁参照。

木下智史(きのした・さとし)
1957年生まれ。関西大学大学院法務研究科教授。著書に、木下智史=只野雅人編『新・コンメンタール憲法[第2版]』(日本評論社、2019年)、木下智史=伊藤建著『基本憲法I─基本的人権』(日本評論社、2017年)などがある。