元号と天皇制:一世一元の制の近現代(原田敬一)

特集/元号について知りたい。| 2019.05.30
特集:元号について知りたい。

2019年4月1日、新元号が発表され、5月1日の天皇代替わりと同時に元号の改定が行われました。中国・漢の武帝時代にはじまり、皇帝時間支配権に基づき定められ、服属の証として使用されていたとされる元号。現在の日本では、元号の使用については法律に定めはありませんが、天皇のおくりな以外にも、たんなる時代の区切りとして日常的に使用され続けています。

明治を境に、元号はどのように変わったのか。「一世一元の制」はどのように決められたのか。「明治」「昭和」の改元の経緯を追い、近代における天皇制の政治利用と、元号の社会的意味について、日本史研究会代表委員をつとめる原田敬一(はらだ・けいいち)佛教大学名誉教授に説明していただきました。

1 図書頭森林太郎「元号考」

現代では「文豪」として知られる森鴎外には、別の顔がある。医学を学んだ学徒の結果としての軍医という顔と、漢籍に堪能であった知識人としての帝室博物館総長と宮内省図書頭という顔である。前者の顔は、1916年4月13日、依願予備役となり、陸軍省医務局長を辞任したことで締めくくられ、後者の顔は、1917年12月25日「免 臨時宮内省御用掛」(1913年2月に任命。仕事は、「日記」によると、大正天皇の勅語や伏見宮の令旨などを草することだった)と「任 帝室博物館総長兼図書頭」によってうまれた。「元号」については後者に注目しなければならない。

鴎外は最晩年に「帝諡考(ていしこう)」と「元号考」を執筆した。前者の末尾には「大正八年己未十月十三日 図書頭森林太郎〓(高の下に木)」とあり、1921年宮内省図書寮から限定100部で印刷刊行され、関係諸官などに配布された(「後記」、『鴎外全集』第20巻、岩波書店、1973年)。「元号考」は未完の「稿本」であり、「薨去の数日前まで加筆を怠らなかつたが、遂に完成せずに終つた。」(同)という。

鴎外が「大正」元号に不満があったことはよく知られており、先に引用した「後記」にも解説があるが、それは1920年4月28日付賀古鶴所宛書簡に次のようにあることで根拠づけられる。

〇諡ノコトガ済ンデ(印刷ハマダ許サレズ)年号ニトリカゝリ候明治ハ支那ノ大理ト云フ国ノ年号ニアリ尤コレハ一作明統トアルユエ明治デハナカツタカモ知レズ大正ハ安南人ノ立テタ越トイフ国ノ年号ニアリ又何モ御幣ヲカツグニハ及バネド支那ニテハ大イニ正ノ字ノ年号ヲ嫌候「一而止」ト申候正ノ字ヲツケ滅ビタ例ヲ一々挙ゲテ居候不調ベノ至ト存候

「明治」も「大正」も中国で使われた可能性があり、「大正」は「一にして止まる」と縁起が良くないと述べている。過去の例を博捜して決めるべきなのに「不調ベノ至」と当局への批判が厳しい。

2 維新改革と一世一元の制

孝明天皇時代(1831~1866、践祚(せんそ)は1846年なので21年間の治政)には、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と七つの元号が使われた。弘化は仁孝天皇の時代に改元されたものだから、厳密には六つが孝明天皇の朝廷では採択されたとなる。平均3年に1度の改元である。

慶応から明治に改元されたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。その経過は、『明治天皇紀』が最も詳しい。古文調で記されているので、適宜原文を「  」引用で交えつつ、現代文に変えて経過をたどってみる。

「明治」への改元の経緯:手続きの簡略化と新たな改元手法

改元の手続きは、清原家と菅原家から複数を提案させ、改元定参仕の公家により難陳させて、一つを選ぶというのが従来のやり方だった。難陳とは、文字や過去の例などを理由として選んでいく手法である。そうした手続きを簡略化させたのが、明治という年号の決定だった。その意味では古代からの伝統手法ではなく、近代に創造された手法である。

清原・菅原両家に提案させるのは従来通りだが、難陳を廃止した。選ぶ人として議定松平慶永が指名され、提案のうちから「佳号二三を選進」させた。難陳は、中国や周辺の漢字使用国の年号との重なりや意味などを考えて選ばれた公卿が、議論することをいうが、省略したばかりに先に見た森鴎外の批判のように、過去の用例と重なっているという不満が出てきたのだろう。慶永の選進した「佳号二三」から選ぶよう、天皇に上奏があり、天皇は宮中の内侍所に出向き、「躬(みずか)ら御籤(おんくじ)を抽(ひ)き、明治の年号を得たまふ」。最後は籤(くじ)だった。これも従来にはなかった。森林太郎『元号考』は、年号の候補を丹念に収録した文献だが、明治と大正には候補名の記載はなく、典拠が記されているのみである。

それによれば明治の典拠は、周の易経にある、

聖人南面而聴天下嚮明而治

の文章から採用された。聖人は南面して人民にむかい、天下の事を聞き、統治を進めれば、明るい方向にむかって治まる、という理想を述べたものに基づいている。

二つの太政官布告

採用された年号は朝廷の百官に告げなければならない。そこで、二つの太政官布告が出された。9月6日、「宮堂上へ」(皇族と公家宛)として「来八日辰刻就改元定参賀献物等総テ可為嘉永元年之通候事」(来る八日の午前八時、改元定につき、参賀し献上物を持参すること、嘉永元年と同じようにせよ)という太政官布告第722がまず出され、次いで7日に、「諸侯及徴士へ」(大名と、新政府に召し出された各藩の武士宛)として、「来八日辰刻改元式被為行候ニ付参賀可致事/但御当日相除九日ヨリ十二日迄之内参賀重軽服(じゅうきょうぶく)ハ御神事後参賀可致総テ不及献物候事」(来る8日の午前8時に改元式を行うので参賀すべし、但し当日でなくとも9日から12日までに参賀し、父母の喪に服している者=重服、または軽い喪に服している者は神事終了後に参賀すること。全て献物には及ばない。)という太政官布告第724が出された。

同じ時に集めているが、明らかに公家と大名等への対処は異なっている。皇族と公家には「改元定」を行うとし、大名と武士には「改元式」を行うと通達している。前者の行う「改元式」に、一歩下がったところで大名や武士は参加せよという形である。前者と後者のかかわり方が異なっているため、前者には献上物が許されたが、後者には許されなかった。喪に服している者は神事も行うので遠慮するように、という但し書きも大名等にのみ出されている。

この時期、新政府ができたものの、大名や公家、武士たちの間で身分差を意識せずに行動することが難しく、この年1月の五箇条の誓文にいう「上下心ヲ一ニシテ」や「旧来ノ陋習ヲ破リ」というのは、そうした身分差を越えて新政府の団結を獲得するための文言であった。

一世一元の宣言

9月8日午前8時、宮中で改元定の儀が行われた。執行担当者は、上卿・醍醐忠順権大納言、弁・葉室長邦右中弁、御用掛・柳原光愛権大納言の3名。同日(1868年10月23日)、太政官布告第726は、行政官の布告文と詔書で構成されている。煩雑だが原文をまず引用し、解説を加える。

今般 御即位御大礼被為済先例之通被為改年号候、就テハ是迄吉凶之象兆ニ随ヒ屡改号有之候得共自今 御一代一号ニ被定候、依之改慶応四年可為明治元年旨被 仰出候事

(今般、新天皇の即位の大礼を済まされたので、先例の通り年号を改める、ついてはこれまで吉凶の兆候に従い、しばしば改元してきたが、今後は天皇一代に一年号と定めた、これにより慶応四年を明治元年とする旨を仰せいだされた。)

従来のように吉凶の兆しに関連して改元することはやめて、天皇一代に一年号の一世一元制とする宣言である。行政官の布告にはその用語はなかったが、詔書には「自今以後革易旧制一世一元以為永式主者施行」とあり、今後旧制を一世一元に改め永遠に施行せよという言葉で結ばれている。ただし太政官の決定で改元したのだが、根拠法はないため、天皇に上奏する際、「従前の如く参議以上の公卿加署せしもの」に加えて、「別に一通を作成し」たうえで、「輔相岩倉具視以下議定七人・参与十一人、行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法諸官及び京都府知事等之れに署名」した。

前近代の朝廷の時期と同じように、大臣・納言・参議ら殿上人の公卿が署名するという古い形式を踏襲すると同時に、新政府の責任者たちに地元京都府知事を加えて署名させている。これも臨時の新制度だった。

改元に関する根拠法がその後もないままで、1889年2月11日、大日本帝国憲法の下賜ととともに、皇室法としての皇室典範も制定されたが、そこでも改元の取り決めはなかった。

登極令:改元の根拠法

改元の根拠法令が成立するのは1909年2月11日制定の登極令(皇室令第1号)である。これによれば、践祚後ただちに改元し、改元にあたっては枢密顧問官に諮詢し、天皇が決定する(第2条)、それは詔書で公布する(第3条)、となっている。践祚と即位についてのおおまかなことを決めているだけだから、実際の運用にあたっては、宮内省などの裁量が必要となる。そのことが「大正」や「昭和」の年号選定過程で現れる。

3 「昭和」という元号

『大正天皇実録』の第4巻(明治45年~大正4年)刊行が2019年6月になっているので、5月現在では「大正」元号の制定過程を検討することができない。ここではすでに刊行済みの『昭和天皇実録』第4巻(東京書籍、2015年)に基づいて「昭和」の制定過程について記述する。

「昭和」への改元の経緯

1926年12月26日、嘉仁天皇が亡くなると、直ちに裕仁皇太子が践祚し、閣僚らから天皇崩御の弔詞と践祚の祝詞を受け、いったん休養する。その直後から閣僚らは忙しくなる。嘉仁天皇が亡くなったのは沼津の御用邸付属邸だったので、践祚もその後の弔詞・祝詞も御用邸付属邸だった。

若槻礼次郎首相以下が御用邸本邸に戻ったのは午前3時半。緊急閣議が開かれ、登極令に基づく元号建定の件を議論し、手続きを確認したうえで、元号建定の詔書案・大喪使官制・東宮武官官制廃止などを閣議決定し、直ちに元号建定の詔書案について枢密院に諮詢するよう新天皇へ上奏する。

午前6時45分から枢密院の元号建定の審査委員会が開かれる。委員長は枢密院副議長の平沼騏一郎、首相ら閣僚も参加し、元号案は全会一致可決、詔書案は修正可決となった。

首相の同意を得たうえで、午前9時15分、枢密院本会議が開かれ、委員会から提案された元号案と詔書修正案を全会一致で可決し、議長が直ちに奉答した。奉答書は内閣に下付され、再度の閣議で元号建定の詔書案の公布を閣議決定する。新天皇は若槻首相に謁見し、元号建定の件の上奏を受け、裁可、10時20分詔書に署名。詔書は直ちに官報号外で公布され、「昭和」と改められた。

「昭和」の年号の典拠は、尚書(五経の一である書経の古名で、中国古代の歴史書で政治の参考書とされた)の

克明俊徳、以親九族、九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦、黎民於変時雍

という文章による。

原案の作成についても『昭和天皇実録』は詳細な事実を明らかにしている。

原案は宮内大臣一木喜徳郎ルートと若槻礼次郎首相ルートの二つが同時進行していた。両者の間に連絡はなかったようだ。一木宮内大臣が勘進案をまとめた段階で若槻首相に伝え、若槻が調整することになった。

原案の作成(1):宮内大臣・一木喜徳郎ルート

一木宮相は、嘉仁天皇の病気が長引くため、万一に備え、宮内省図書寮編修官吉田増蔵に五項目を与え、「慎重に元号を勘進すべきことを内命」した。5項目は次の通り。

一、元号ハ、本邦ハ固ヨリ言ヲ俟タズ、支那、朝鮮、南詔、交趾等ノ年号、其ノ帝王、后妃、人臣ノ諡号、名字等及宮殿、土地ノ名称等ト重複セザルモノナルベキコト。
一、元号ハ、国家ノ一大理想ヲ表徴スルニ足ルモノナルベキコト。
一、元号ハ、古典ニ出処ヲ有シ、其ノ字面ハ雅馴ニシテ、其ノ意義ハ深長ナルベキコト。
一、元号ハ、称呼上、音調諧和ヲ要スベキコト。
一、元号ハ、其ノ字画簡明平易ナルベキコト。

一木宮相がどこからこの基準を持ち出したかはわからないが、第一項などは、漢籍などをよく整理しなければ重複する可能性は大きかった。吉田増蔵(1866~1941)は、奈良女子高等師範学校などで教えた経歴を持つ漢学者で、宮内省に入り、図書頭森林太郎の信頼厚く、森の完成させられなかった「元号考」を吉田が「未成の三分を補修」(1953年岩波書店刊行の『鴎外全集』第13巻の後記に森潤三郎が引用した与謝野寛の言葉)して、『鴎外全集』第13巻で公刊されたもので、新元号を選定するには必要かつ十分な人物だった。

吉田は、「広く経史子集を渉猟し」た。つまり中国の四書五経や歴史書、文集などを広く調査している。その中で「まず三十余の元号を選出」した。次いで第一項に抵触するかどうかを「多くの典籍に就いて精査推覈」して重複を調べた。後の4項目の条件を満たすものとして、次の10案を選び、第一案として一木宮相に提出した。以下、カッコに示したルビは原文のままで、歴史的仮名遣い。

神化(しんくわ)・元化(げんくわ)・昭和(せうわ)・神和(じんな)・同和(どうわ)・継明(けいめい)・順明(じゅんめい)・明保(めいほう)・寛安(かんあん)・元安(げんあん)

一木宮相はこの10候補について吉田に「綿密に諮問し」、もう一度研究して半数を選ぶよう命じた。吉田が勘進第二案とした5案は次の通り。

昭和(せうわ)・神和(じんな)・神化(しんくわ)・元化(げんくわ)・同和(どうわ)

この提案を受けた一木宮相は「さらに慎重に考査を行い」、「第一「昭和」、第二「神化」、第三「元化」の三元号案を選定し」、これで勘進第三案とした。この第三案を、内大臣牧野伸顕と元老西園寺公望に見せ、意見を求めた。2人が賛成したので、一木宮相は案を若槻礼次郎首相に知らせた。

原案の作成(2):首相・若槻礼次郎ルート

一木のこれらの動きとは異なり、若槻首相も新元号の準備をしていた。1909年制定の登極令では、天皇が枢密院に諮詢するとなっていたが、原案の作成やその前段階をどうするかは決めていなかった。枢密院に天皇が諮詢する課題は、内閣の奏請によって行われるので、若槻首相の判断は間違っていない。「大正」の選定の時も同じことがあったかもしれない。『大正天皇実録』第4巻の刊行が待ち遠しい。

若槻が、元号の勘進をさせたのは内閣官房総務課事務嘱託の国府(こくぶ)種徳(1873~1950)。内閣官房には、内閣制度始まって以来漢籍に明るく漢詩文の作成にも堪能な学者を、勅語や布告文の作成担当者として絶えず数名確保しており(拙稿「矢土勝之(錦山)と伊藤博文をめぐって」『鷹陵史学』42号、2016年9月)、その一人だろう。国府は、東京帝国大学法科大学で一木の授業を受けているという奇遇もあった。博文館に入り、雑誌『太陽』主筆なども務めたが、その後内務省に入り、この時内閣官房にいた。国府の選定基準や典拠などはわからないが、次の5候補を選定し、内閣書記官長塚本清治に提出した。塚本は直ちに若槻首相に報告した。

立成・定業・光文・章明・協中

若槻首相の手元には、一木からの3案と、国府からの5案が集まった。若槻は一木宮相と「綿密な商議を行い」、塚本書記官長に「慎重なる精査を命じた」。さらに3人でそれぞれ慎重な選定をしたということだろう。「その結果、諸案の中より「昭和」を選定し、参考として「元化」「同和」の二案を添付することとなり」と『昭和天皇実録』が記すのは、主導者が誰なのか不明だからだろうが、第一案が「昭和」になったので宮内省サイドの案が採用されたことになる。参考の二案も宮内省案だった。これらが、先に述べたとおり、午前6時45分からの枢密院元号建定委員会に提案したものだった。

4 「元号」の社会的意味

元号を皇帝が選定し、それを社会一般で広く使う暦の基準とするのは、天子が土地人民と共に時間も支配するという古代中国の理念を表したものである。中国の各王朝が、朝貢する諸国に暦を下賜するのは、時間を同じくするという同様の意味が含まれている。そのためしばしば改元するほうが、支配者の力を見せることになり、様々な災異忌避や祥瑞に対し改元が行われた。それを皇帝一代に元号を一つとする一世一元の制としたのは、明朝と清朝である。清朝に朝貢していたベトナムの玩朝も同じ制度とした。

明治の改元と一世一元の制の採用は、いわば明―清と続いてきた制度に倣ったものだが、朝廷の慣習を一掃するという新政府発足にあたっての判断があった。陰陽道を主宰する菅原・清原両家の選定、それを選ばれた公卿が議論する難陳など、古代から続いてきた制度を温存しては、公家たちの力がいつまでも残ってしまう。それを排除するには、改元の回数を減らすことで、その極限が一世一元だった。制度を簡素化するという維新当初の判断が正しかったかどうかは、別の課題を残した。

簡素化を目標とした新政府は、明治改元にあたっては難陳を省略して松平慶永の見識に依存し、最後は明治天皇の籤引きとなった。前例や同じ漢字文化圏での先例など精査しなければならないことは多くあり、「昭和」選定の際の一木宮相の指示5項目にその危険性は示されている。

先例を精査しないで制定した失敗が明治・大正の例ではないか、というのが先に挙げた森林太郎(鴎外)の厳しい指摘だった。鴎外は、〈昭憲皇太后問題〉として友人の賀古鶴所に宛てた書簡(1920年6月8日と推定される)で、問題を指摘したことがある。これは皇后の諡号(しごう)を皇太后としたことについて、「皇太后」という生前の位置(明治天皇が死去したのち、皇后が先の天皇の妻として「皇太后」となる)によってで呼ばれた敬称を、死後に付ける先例は日本にはない、という鴎外の怒りから書かれた書簡である。この中に「宮内省全体ガ典故ニ関スル機関ヲ有セヌハ缺典ニアラズヤ」と諡号や元号など故実を調査する機関がないことを問題としている。

元号を制定するということは、このような専門機関の増設まで必要となるわけで、そうした財政措置は戦前の天皇制国家では必至とされたとしても、戦後はどうするのか、そうした丁寧な議論が行われて1979年の元号法が決まったわけではなかった。また戦前でも鴎外のような意見はあったと思われるが、宮内省でそのような財政措置は取られていない。大久保利通や伊藤博文ら新政府の近代天皇制構想があったことから、現代にいたるまで、天皇制の政治的利用というスタンスにそれほど変化はない。

5 天皇制と日本近代

明治維新の過程を見ると、天皇と朝廷が持ち出されるのは、その宗教的作用であった。幕府が朝廷にビッドルの米国艦隊来航を報告したのは、朝廷に人心安定の一助を担ってほしいという政策の一コマだった(遠山茂樹『明治維新と天皇』岩波書店、1991年)。

朝廷は、近世初期に確立した祈祷体制である七社七寺(伊勢・石清水・賀茂など七神社と東大寺・延暦寺・興福寺など七寺院)に敵国調伏の祈祷を依頼し、その要請に応えた。

ペリー来航後の老中阿部正弘が、その報告をしたことにより朝廷の政治的活発化が進み、幕末の動乱へとつながったという解釈が一般的だが、幕府は、朝廷や大名だけでなく、陪臣やさまざまな人々にも意見を出すよう求めたのであり、言論開放という意味も持っていた。

天皇と朝廷が政治的意味を持つようになるのは、もう少し時間がかかった。孝明天皇という強い個性の下では、幕府も長州や薩摩などの諸藩も動揺しながら、政治改革への道を模索していたのであり、その点を厳しく見つめることで、現在の幕末維新史研究は進んでいる。

鳥羽伏見の戦いで武力倒幕の道である戊辰戦争が始まったが、各地へ派遣された新政府の代表は、新政府を率いる天皇が何者なのかをまず説明しなければ、新しい政治の意味を浸透させることができなかった。このことは天皇を、将棋の「玉」になぞらえて政治工作を進めてきた倒幕派にはよく理解されていた。

そこで各地に、天皇は正一位稲荷大明神より偉い、などという珍妙な説明の布告が出された。東征軍が掲げたという錦旗も、すぐに意味を理解し、尊重されたというのは伝説の水準である。だから天皇を浸透させるさまざまな仕掛けが誕生したばかりの新政府では試みられた。新政の方針を決めたという五箇条の誓文を、天皇が公家・大名・百官を率いて神に誓う形式にしたのもそうだし、改元に踏み切ったのもその一策だった。

古代以来の改元は、必ずしも天皇や将軍の代替わりとリンクしていなかった。特に江戸時代は、江戸幕府の意見が改元を決定する重要な要因だった。それを代替わり後9ヶ月にして改元し、明治を登場させたのは政治的作用を意図したからにほかならない。大きな意味を持たせるには、度々改元するというより、代替わり改元の制度化のほうが有効だと岩倉らが考えたというだけである。

6 おわりに

1946年11月に公布された日本国憲法により、1947年新しい皇室典範が制定され、天皇に元号制定権はなくなった。歴史学界などの反対運動もあったが、1979年元号法が制定され、元号の法的根拠は再び与えられた。

元号法はわずか2か条で、元号は政令で定める(第1条)、元号は皇位の継承があった場合に限り改める(第2条)というもの。登極令もおおざっぱだったが、元号法もおおざっぱで、どのような手続きによるかは、政令を定める内閣の見識にかかっている。内閣の見識が、天皇の諡号にもあたるものを決めるというものとして大方が承認することもあるだろう。問題はなんとなくそうなっている、という現状ではないのか。どこか遠いところで難しいことが決まっているそうだ、でもいつかは私たちにも関係するんだね、というのは国民主権以前の江戸時代の考えではないのか。私たちはいつから「客分」に甘んじるようになったのか。

森鴎外が危惧したように、問題のある元号にしてはいけないから専門の機関を小さくても置く是非とか、有識者が議論したというがそんなに短い時間でいいのか、彼らに森鴎外や吉田増蔵のような見識は期待できないだろうに、とか違和感はおおいにある。そうしたことをなぜ自由に議論できないのだろうか。

今回の元号改定フィーバーを見ていると、主権者が日本国憲法第1条に関連して、「イイネ!」しか押していないのがたいへん気にかかる。

原田敬一(はらだ・けいいち)
佛教大学名誉教授、日本史研究会代表委員。専門は日本近現代史、軍事史。
2010~2012年佛教大学歴史学部歴史文化学科教授、2013~2019年同歴史学科教授。
主著に、『国民軍の神話4 兵士になるということ』(吉川弘文館、2001年)、『日清・日露戦争』(岩波書店、2007年)、『日清戦争19』(吉川弘文館、2008年)、『兵士はどこへ行った 軍用墓地と国民国家』(有志舎、2013年)、『「戦争」の終わらせ方』(新日本出版社、2015年)など。